日下源三郎

日下源三郎(くさかげんざぶろう:1905~1944)

系統:山形系

師匠:小林倉吉

弟子:

〔人物〕 明治38年7月8日宮城県七ヶ宿町滑津に生まれた。日下家はもともと山形の出であると言うが父の代に滑津に移り、同地で製材業を営んでいた。〈こけし辞典〉の日下源三郎の項目には、源三郎は「明治16年ころ宮城県刈田郡七ヶ宿の生まれ」と記載されているが、これは父親との混同であろう。
源三郎は、大正5年ころ山形で小林倉吉に弟子入りし、木地の修業を行った。兄弟子に高崎栄一郎、斎藤金一、相弟子に丹野辰彦らがいた。大正13年徴兵検査のあと独立し、相弟子の丹野辰彦とともに山形市鍛冶町で 開業したが、上手くいかなかった。そこで丹野辰彦とともに父親のいる七ヶ宿に戻り、同地の佐藤文治郎工場の職人となった。この工場では水力タービンロクロを使用しており、木地玩具やこけし、日用雑器などを作った。
源三郎は、昭和2年ころ七ヶ宿を去ったが、昭和4年ころ山形市鍛冶町の鈴木宮次郎の借家で開業、動力ロクロで家具の脚などの製作を行った。
昭和11年米沢市の小林吉太郎の紹介により、米沢市内の機料店で働き、機織用の部品を作った。この時期に少数こけしも製作し、蒐集家の手に渡った。
その後、米沢市北寺町で独立し、営業を続けたが、病を得て昭和19年山形脳病院で亡くなった。行年40歳。


左:日下源三郎 右:丹野辰彦

〔作品〕 兄弟子高崎栄一郎の話によると倉吉のもとで修業していたころ源三郎もこけしを作っていたと言うが、そのころの作品は残っていない。
現存するものは概ね昭和11年以降米沢時代のものである。
工人としての名前は仙台の戦前の雑誌〈きぼこ〉で紹介されたが、写真の初出は戦後の〈こけし・人・風土〉である。
現存する昭和11年以降のこけしは、小林倉吉と言うより、米沢の小林吉太郎の作風に相対的に近い。ただし、面描はペン描きを思わせるような細線硬筆で端正に仕上げられている。

〔23.8cm(昭和10年)(橋本正明)〕 岡島誠太郎旧蔵
〔23.8cm(昭和11年)(橋本正明)〕 岡島誠太郎旧蔵

昭和16年以降になると、小林家風の胴模様のほかに、下掲写真のこけしの様に単純な三段の花が重ねて描かれる様になる。さらに晩年になると花は、星のような形に単純化され、赤、緑、紫などで重ねて描かれるものも現れる。

〔23.9cm(昭和15年ころ)(高井佐寿)〕
〔23.9cm(昭和16年ころ)(高井佐寿)〕

山形の小林誠太郎による日下源三郎型がある。また、平成23年ころ米沢の長谷川正司が日下源三郎型を作ったこともある。

系統〕 作並系(山形系)

〔参考〕

第617夜:日下源三郎とその写し: こけし千夜一夜物語

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