小関幸雄

小関幸雄(こせきさちお:1913~2004)

系統:弥治郎系

師匠:新山福太郎

弟子:小関晴雄/小関幸一

〔人物〕 大正2年11月21日、山形県米沢市上郷町竹井の小関清吉の長男に生まれる。父清吉は農業、冬は炭焼や山仕事に従事していた。清吉が怪我の手当てのため宮城県鎌先温泉に行って療養した折、たまたまこけしを売りにきた弥治郎の新山福太郎の妻女つたよを知った縁で、つたよに三年越しの懇願の末に息子の幸雄を福太郎に弟子入りさせた。幸雄が25歳のときである。幸雄は昭和12年正月から昭和14年まで夏は家業を手伝い、冬のみ3ヶ月弥治郎へ赴いて修業した。
昭和14年3月の弟子離れの時には、福太郎が竹井まで出向いて、ロクロを据え付けてを行ったという。昭和18年ころまで家業のあいまにこけしや玩具類を製作、自宅周辺や、五色温泉、板谷駅などの売店に土産物として相当数出荷した。また酒田の渡辺玩具店、仙台の陸奥売店などからの注文にも応じた。〈こけしと作者〉でこけし工人として紹介された。橘文策は米浪庄弌からの情報で竹井のこけし作者小関幸雄を知ったと書かれている。
戦後、新型こけしの勃興に伴い新型こけしの木地を頼まれて木地業再開。このとき動力ロクロを導入した。さらに畠仕事、果樹園の作業などをこなしながら、伝統こけしは注文があった場合のみ作った。生来小柄で兵役も免除されたと言う身体ではあったが、きわめて精力的に仕事に取り組んでいた。
昭和48年、東京のたつみの依頼で幸雄の戦前作や福太郎の古作を復元、その後伝統こけしを中心に製作を続けた。昭和56年から長男幸一に木地の技術とこけしの描彩を指導した。
「米沢伝統こけし工人会」の会長を務めるなど米沢地区のこけし作者の中心でもあった。80歳を過ぎて高齢になっても作行の衰えは見せず、82歳の出品作が全国こけし祭りの最高賞を受けた。
平成16年12月9日没、行年92歳。

なお〈こけし辞典〉等従来の文献では名前の読みを「ゆきお」としているものが多いが「さちお」が正しい。

〔作品〕 弥治郎時代に作ったのは小寸の作り付けだけだと言う。〈こけしと作者〉で紹介される以前の弥治郎時代の作品は深沢コレクションに残されている。深沢要が昭和13年に弥治郎を訪れて手に入れたものと言う。形態・描彩ともに福太郎を正確に写した作品である。後の竹井で完成させたスタイルはまだ現れていない。


〔右より 15.2cm、14,8cm(昭和13年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

下掲写真は戦前の小関幸雄七本であるが、左端は深沢コレクションの弥治郎時代に近い作風、左から3本目は縦長の頭部に茫洋とした面描を施した異色作。〈こけしと作者〉の図版に紹介された9寸5分もこれと似たような形態・表情であり、おそらくこのこけしも昭和14年竹井の極初期に作られたものであろう。〈こけしと作者〉で橘文策は「大体福太郎のこけしに似ているが、表情のとぼけたところから見て、特異な素質を持った作者であることが解かる。」と書いて紹介した。


〔右より 10.3cm(昭和13年)弥治郎時代、26.5cm(昭和15年)、22.3cm(昭和14年)、22.0cm、15.2cm(昭和15年頃)、12.3cm、6.5cm(昭和16、7年)(鈴木康郎)〕

上掲右から2本目、4本目および下掲の深沢コレクションの幸雄は弥治郎こけしとしてはみな胴が細く全体に縦長である。いずれも昭和15年頃の作と思われる。弥治郎とは同じものを作ってはいけないと思って意図的に細身の独特のスタイルを考案したようである。あまりに細いのでステッキのようだと評されたことがある。

〔23.9cm(昭和15年頃)(深沢コレクション)〕
〔23.9cm(昭和15年頃)(深沢コレクション)〕

戦後は新型木地の注文が非常に多く、その木地を挽く合間に、弥治郎の新山一家の作風に近いこけしを少しづつ作っていた。しかし、昭和49年以降、川上克剛の仲介によって東京のこけし店たつみが復元こけしを依頼するようになり、下掲写真のように幸雄の戦前作や福太郎の古作をシリーズとして復元したので、格段に見ごたえのあるこけしが継続して誕生することとなった。

〔26.0cm(昭和51年12月)(橋本正明)〕
〔26.0cm(昭和51年12月)(橋本正明)〕


〔 20.0cm(昭和53年)(橋本正明)〕

亡くなる前まで製作を続けていたが、作品には殆ど落潮の感が見えなかった。木地玩具なども作っていた。

系統〕弥治郎系新山系列

〔参考〕

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