北岡木工所

宮城県遠刈田温泉の木地商北岡仙吉が開設した木地工場。


北岡仙吉 橘文策撮影

北岡仙吉は明治16年5月17日の生まれで、父は北岡仙太郎(明治35年没、享年49歳)。
明治38年は凶作で、湯治客も減少し、遠刈田地方は疲弊したが、明治40年峨々温泉から来た吉田畯治が水力利用のロクロ工場を建てて、職人を集めて営業した。しかし、経営がずさんだったため約一年で倒産した。これを見ていた北岡仙吉は、明治42年、木地師を専属職人として抱え込み、木地材料等を支給し、出来た製品を工賃を決めて出来高払いで引き取るという仕送り制度をおこした。また生活日常品は北岡商店から買わせるようにした。佐藤寅治、佐藤直助、佐藤周吾、佐藤治平、佐藤豊治、佐藤吉五郎らが北岡の専属工人となった。
大正3年3月に上野公園で開催された大正博覧会には北岡仙吉の名義で、茶托、茶盆、飯鉢、碁石入。茶盆等を出品しているが、これらは遠刈田の上記北岡専属工人たちが製作したものであった。

大正3年 大正博覧会(東京上野公園で開催)

大正8年刊の全国特産品製造家便覧(上巻)には、遠刈田の北國仙吉とあるが、これは北岡仙吉の誤記であった。


全国特産品製造家便覧(上巻) 大正8年

大正3年7月に第一次世界大戦が起こるとともに景気がよくなったので、大正10年に北岡仙吉は蓄えた資財を投じて、遠刈田温泉に電動式モーターロクロを設置した木地工場を開設した。これを北岡木工所という。これまで自家で北岡の仕事をしていた職人たちは、以後この工場に集結して仕事を行なうようになった。前述の工人の他に佐藤広喜、佐藤護、佐藤巳之吉、佐藤善作、佐藤留吉(吉弥の弟)、佐藤正吉、佐藤静助、佐藤英次、高橋林平、菅原敬治郎などもこの工場で働いた。ここで作られたこけしは全て北岡仙吉名義で蒐集界に渡ったので、この時代には北岡仙吉がこけし作者だと思われていた。
下掲の写真は大正10年木工所開設当時の仙吉と職人たち。


大正10年頃の北岡商店  高橋五郎:〈佐藤治平と新地の木地屋たち〉より

この北岡商店には昭和6年秋に橘文策が訪れて、仙吉から話を聞いている。仙吉は商店主で職人がこけしを作り、仙吉自身は一本もこけしを作ったことがないということが、ここで明確となった(〈木形子研究・7〉、〈こけしざんまい〉再掲)。
下掲写真は当時北岡木工所で作られて、北岡商店で売られたこけし。作者名は明確ではないが、佐藤英次(朝倉英次)や佐藤正吉といった若手工人が作ったものであろう。


〔右より 12.8cm、12.8cm(昭和6年9月)(庄子勝徳)〕 橘文策旧蔵


〔12.8cm(昭和6年9月)(箕輪新一)〕 橘文策旧蔵

北岡仙吉は、昭和18年10月に行年61歳で亡くなり、養子の北岡文左衛門(昭和43年5月没、行年74歳)が跡を継いだ。
戦争が激しくなると北岡木工所は閉鎖されたが、戦後再開し、高橋林平、広平、佐藤照雄、佐藤守正、佐藤一夫、我妻信雄、佐藤治郎、佐藤護、外門荒男等が働いていた。


今も残る北岡木工所、右手は佐藤守正旧宅(平成26年撮影)

戦後の北岡木工所は分業で、一階にはロクロを並べて挽き、二階では専ら描彩専門に行っていた。守正の指導のもとに何人かの女性が描彩に従事しており、一階、二階で、合わせて12、3名が働いていたという。
昭和30年代には営業を中止している。仙吉の後継は、北岡文左衛門の後を文雄が継ぎ、文雄は長く遠刈田温泉こけし組合長を務め、また蔵王町町長も勤めた。文雄は平成24年に行年92歳で亡くなった。

代々の北岡家の当主は以下の通り。

  • 先代、北岡仙太郎(明治35年没、享年49歳)
  • 初代、北岡仙吉(昭和18年10月没、享年61歳)
  • 二代目仙吉、北岡文左衛門(昭和43年5月没、享年74歳)養子
  • 三代目仙吉、北岡文雄(平成24年没、享年92歳)初代仙吉の長女きみの夫で婿養子。元蔵王町町長(在任1988-1992)

 

[`evernote` not found]