佐藤久弥

佐藤久弥(さとうきゅうや:1935~2016)

系統:土湯系

師匠:佐藤佐志馬

弟子:近野明裕

〔人物〕   昭和10年11月16日、福島市に生まる。佐藤佐志馬・ヨシクの婿養子。名前の読みを「ひさや」とした文献もあるが「きゅうや」が正しい。昭和29年3月福島県立福島工業高校卒業後、福島貸切自動車会社に勤務し、事務の仕事をした。土湯のこけし工人佐藤佐志馬には子供がいなかったため、姉よしの娘さち子を養女としたが、久弥はその入婿となった。昭和37年3月に結婚し、39年に長男清が、43年12月に次男薫が誕生した。
昭和38年11月より42年まで義父につき木地修業。昭和41年4月よりこけし製作を始めた。昭和43年5月には鹿間時夫のすすめにより、玉山勇旧蔵〈こけしの美〉(原色版掲載)の粂松を見取り学問にて勉強し製作した。アヤメ模様入り巨頭の良作を物にし、この作により将来を大いに嘱目された。その頃の久弥は長身やせ型のインテリ青年であったが、「器用で、理解力は早く、玉山教授の持っていた粂松をたちまち自家薬籠中の物にし、本人型として伝統の枠内にて定着させた腕は高く評価できる」と鹿間時夫は高く評価した。
ただ、その後は粂松の型をあまり作らず、義父佐志馬の様式を継承した作品を多く作った。
昭和57年頃、近野明裕が佐藤佐志馬に弟子入りしたが、佐志馬はその頃もうほとんどロクロに上がらなかったので、久弥が主に指導した。
平成13年頃、運転していた車が福島市荒井の自宅前でトラックに追突される事故にあい、頭部を骨折して障害を持つ生活を送ることとなった、それ以後、こけしの製作は行っていない。長く入退院を繰り返していたが、 平成28年7月24日に没した、行年82歳。

佐藤久弥  撮影;佐藤 健兒朗

佐藤久弥  撮影;佐藤 健兒朗

〔作品〕  下掲は鹿間時夫が指導して製作を促した玉山勇旧蔵の粂松型。佐久間粂松の作風とはまるで異なるが、当時の土湯の低迷した作品の中では群を抜いて面白い作品であった。昭和43年7月には東京平和島でこけし市が開催され、佐志馬、広史、忠蔵が実演を行ったが、佐志馬女婿久弥のこけしも多く出品された。あやめ入り巨頭といわれたこけしである。

〔 21.8cm(昭和43年)(橋本正明)〕
〔 21.8cm(昭和43年6月)(橋本正明)〕 平和島こけし市出品

久弥が粂松の様式を作った時期は、昭和45年の約一年間くらいで、その後は主に義父佐志馬の型を作った。

〔30.3cm(平成11年)(高井佐寿)〕
〔30.3cm(平成11年)(高井佐寿)〕

系統〕 土湯系 近野明裕が伝統を継承、佐志馬の型も作っている。

〔参考〕

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