佐藤辰雄

佐藤辰雄(さとうたつお:1928~2009)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤今三郎

弟子:佐藤慶明/佐藤慶春/佐藤英雄

〔人物〕昭和3年10月7日農業佐藤昇、きくの長男として宮城県福岡村弥治郎に生まれる。佐藤慶明、慶春は弟にあたる。父昇は八宮の農業志村要右衛門の子で、弥治郎の佐藤今三郎の娘きくと結婚して養子となった。
辰雄は小学校卒業後製炭や農業に従事したが、その合間に今三郎について木地を学び、戦後昭和25年頃からこけしの製作も始めた。翌26年から弟の慶明に、昭和31年からは弟の慶春に木地を教えた。
大の酒好きでも知られた。
昭和56年に弥治郎の佐藤英雄に木地の技術を伝えた。
平成21年4月18日没、行年82歳。


左 今三郎、右 辰雄 昭和32年頃


佐藤辰雄 昭和36年 撮影:露木 昶

〔作品〕 戦前修業時代のこけしとして確定できるものは残っていない。ただし、辰雄の戦前作と推定されるものは一本ある。下掲はネットオークションに出てきたもの、今三郎か辰雄かで議論があった。木地の仕上がりはでこぼこが残っており、襟や胴裾の花の筆致も稚拙、高齢になったとはいえ今三郎のものとは思えないという意見が優勢で、修業時代の辰雄であろうとされている。しかし依然、最晩年の今三郎の可能性ものこる。技術はともかく小寸の弥治郎として愛すべき作品である。


〔15.0cm(昭和18年頃か)(原由紀)〕

今三郎の型を継承。今三郎の古品を復元したこけしもある。また幸太型の復元も行った。
小さいころから木地の家で育ったので技術的には安定していて、破綻はない。
下掲は、昭和34年に滋賀県の総本社から惟喬親王の分身をお招きし、弥治郎南に神社を建立して安置したときに、その記念として辰雄が作ったこけしである。この時期の作は、目鼻を顔の下部に描いて、より童顔の俤があったが、表情には幾分甘さがあった。


〔15.2cm(昭和34年)(国府田恵一)〕胴底に「小野宮惟喬親王遷宮記念」のゴム印あり

今三郎古品の復元などを通して、形態、描彩ともに堅実なこけしになった。

〔右より 24.5cm(昭和38年4月)、18.0cm(昭和46年12月)(橋本正明)〕
〔右より 24.5cm(昭和38年4月)、18.0cm(昭和46年12月)(橋本正明)〕

〔右より 24.2cm(昭和40年頃)、17.8cm(昭和42年1月)(橋本正明)〕
〔右より 24.2cm(昭和40年頃)、17.8cm(昭和42年1月)(橋本正明)〕

系統〕弥治郎系幸太系列 今三郎の型は辰雄から佐藤慶明や佐藤英雄に継承され、その弟子の高田稔雄、吉野稔弘に伝わっている。

〔参考〕

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