佐藤佐志馬

佐藤佐志馬(さとうさしま:1907~1985)

系統:土湯系

師匠:佐藤嘉吉

弟子:佐藤俊昭/佐々木嘉蔵/西山敬三/佐藤久弥/阿部一好/今泉嘉明/篠木利夫/斎藤忠七/阿部作雄/佐久間嘉光

〔人物〕   明治40年2月19日、福島県野地温泉の旅館業加藤屋の佐藤嘉吉、スイの三男に生まれる。嘉吉は膽澤為次郎から一人挽きを学んでおり、冬期は土湯に下りて木地業に従事していた。嘉吉の長男忠太郎は野地温泉で父の旅館業の後を継いだ。次男兵七は土湯で写真業を開業し、後にこけしも作った。
佐志馬は大正8年3月土湯村立小学校卒業後、旅館の手伝をしていたが、大正10年11月から父について木地を学び、約4ヵ月間木地を挽いた。父嘉吉は非常に几帳面な人で、自分のこけしを見て気に入らないと、削り板の上で割ってしまったという。また「今日独楽を二十作れたら、明日はそれ以上作れるようになれ。」と言って指導したと佐志馬は語っていた。
昭和12年に野地から土湯に居を移し、こけし製作を姶めた。昭和20年より37年まて東北電力㈱のダムの仕事に従事、その合間にこけしを挽いた。東北電力福島支店長の兄だった人がこけし蒐集家で、弟の支店長に佐志馬のこけしを手に入れてほしいと依頼があった。そこで支店長から直々に依頼が来た。それ以後は半ば公然とこけしを作ることができた。戦後は佐志馬型の精緻な様式をさらに磨きをかけて製作するようになった。
妻ヨシクとの間に子供がいなかったので、姉よしの娘さち子を養女とした。昭和37年さち子に久弥を婿として迎えた。弟子に佐藤俊昭、佐々木嘉蔵、西山敬三、佐藤久弥(婿)、阿部一好、今泉嘉明、篠木利夫、斎藤忠七、阿部作雄がいる。佐久間勝、佐久間弥は兄弟弟子である。佐久間弥の四男嘉光にも木地の指導をした。
昭和57年9月には近野明裕が佐藤佐志馬の家に来て木地の修業を始めたが、この頃は佐志馬はほとんどロクロに上がらず、佐藤久弥が主に指導を行った。
大変世話好きで堅実誠実な人柄を買われ、土湯木地組合の組合長を長く勤めた。性質を反影して緻密な作風であり、工房にこけしコレクションを飾っていて、嘉吉ゆずりの硯の製作も上手であった。
昭和60年12月25日没、行年79歳。


佐藤佐志馬 昭和18年 撮影:田中純一郎

佐藤佐志馬夫妻  撮影;佐藤 健兒朗
佐藤佐志馬夫妻  撮影:佐藤 健兒朗

〔作品〕 佐志馬は父嘉吉から木地を学んだが、父からのこけしの伝承があったかどうかははっきりしない。むしろ、佐志馬の型は自分の工夫で作り上げたものだったかも知れない。こけし製作をはじめた頃の土湯は斎藤太治郎の全盛期で、蒐集家の多くが太治郎を賞賛していたため、佐志馬の最初の頃のこけしも太治郎風の楷書体で精緻な描法であった。描線は太治郎よりさらに繊細だった。胴の赤紫黒のロクロ線は美麗、前髪は極端に細かく描いていた。鹿間時夫は「土湯甘美派のチャンピオン」と評していた。

〔右より 24.5cm(昭和13年)、23.2cm(昭和16年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション 
〔右より 24.5cm(昭和13年)、23.2cm(昭和16年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

〔右より 30.8cm(昭和18年頃)、21.5cm(昭和30年頃)(高井佐寿)〕
〔右より 30.8cm(昭和15年頃)、21.5cm(昭和30年頃)(高井佐寿)〕

戦後昭和40年代になると、鯨目風の眼の描法は極端になって、神経質そうな表情のこけしになった。
多くの弟子を養成したのは土湯として異色である。弟子には自分の佐志馬型継承を強いることなく、それぞれの工夫に任せていた。

系統〕  土湯系 加藤屋のこけしであるが、嘉吉の作品はカネ棒に使われていた特殊な小寸以外は確認されていないので、嘉吉からの継承か、佐藤佐志馬の創意によるものかわからない。

〔参考〕

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