佐藤静助

佐藤静助(さとうせいすけ:1901~1939)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤周吾

弟子:佐藤照雄

〔人物〕明治34年9月15日、佐藤周吾・イシの長男として宮城県柴田郡川崎村青根温泉に生まる。朝倉家へ養子に行った英次は静助の次弟にあたる。大正3年より父周吾につき木地挽を始め、盆、鉢、こけし、玩具類等を作った。大正6年ころ寅治、直治、護等と共に黒川郡吉田村嘉太神で木地教師をし、同7年ころ帰郷、自宅で木地を続けた。大正10年新設の北岡工場で働き、一年ほどでやめ東京へ出たが、大震災でもどり、自宅で木地を続けた。大正14年福島市大町に移り仲間町管野菊好堂の職人となって桐細工や火鉢等を作りながら木地も挽いた。大正15年に長男守正が、昭和5年に二男健二が誕生した。昭和9年より甥の照雄もここで働き、同10年より大町から腰浜に転居、ここから管野菊好堂に通った。
昭和13年3月より福島市曾根田(殿田)で独立開業し、従来ほとんど作らなかったこけしも遠刈田時代を思い出して作るようになった。
静助がこけし作者として見出されたのは、昭和13年7月に秋田季一の探求による。このときの二本は高久田修司の手に渡った。高久田修司の報により、同年10月に深沢要が静助を訪問し、〈こけしの追求〉で紹介した。照雄もこのころからここで木地挽きを修業した。
深沢要の紹介により収集界からの注文が増え、昭和14年より本格的に製作を始め出した矢先、昭和14年2月11日に没した。行年39歳。


北岡仙吉工場時代の佐藤静助(大正10年ころ)

〔作品〕 こけしが蒐集家の手に渡るようになって1年たたずに亡くなったため、残る作品は昭和13年7月から翌14年の初めまでの約半年間のものだけである。
深沢聞書きによると、こけしは父周吾の作風に従っているといい、小寸作りつけも、7寸以上の作もすべて一筆目で古風である。大正初期の遠刈田の作風を伝えていると思われる。
ロクロ線は緑を使ったものが大部分であるが、中には赤や紫を使ったものもある。
深沢要は静助のこけしを手にして「迷子でも出てきたように喜んでいる。何と明るく、豊かなキボコではないか。」と書いた〈こけしの追求〉。
下掲は秋田季一の探求によって高久田修司が入手した初作の二本である。ロクロ線に赤を使ったのは静助としては珍しい。


〔右より  13.5cm、17.9cm(昭和13年7月)(三春町歴史民族資料館)〕 らっここれくしょん

下掲三本は深沢コレクションのもの、おそらく深沢要が静助を訪ねて製作してもらったときのものであろう。


〔右より 18.8cm、21.5cm、13.3cm(昭和13年10月)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

下掲の2本もおそらく深沢収集のものが西田峯吉の手に渡ったものであろう。


〔右より 13.6cm、18.3cm(昭和13年10月)(西田記念館)〕 西田コレクション

長い休止期間をおいて再開した静助のこけしには、古い遠刈田の様式が保たれていたと思われる。

 〔伝統〕遠刈田系周治郎系列 周治郎の直系でありその作品が残ったと言うのは幸いであった。
弟の朝倉英次、弟子の佐藤照雄、長男佐藤守正、照雄の長男佐藤憲雄、憲雄の妻佐藤すみえ等が静助の様式を継承した。

 

〔参考〕

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