佐藤善二(さとうぜんに:1925~1985)
系統:津軽系
師匠:盛秀太郎
弟子:佐藤佳樹/笹森淳一/小島俊幸/阿保六知秀/本間直子
〔人物〕 大正14年5月14日、青森県西津軽郡森田村の電力会社社員佐藤善吉・ハナの二男に生まれる。名前の読み方は、蒐集界では「ぜんじ」で通っている、ただし正式には「ぜんに」であったと言われている。
昭和19年青森県立木造中学を卒業、昭和20年宮城県石巻の船舶兵として入隊した。除隊後、森田村に戻って農業に従事、農協役員まで務めた。昭和28年8月に横浜市金沢区に移り、会社員として働いた。このころ見取りで木地技術を身につけたが、さらに小田原の神奈川県立土木工芸指導所に通って、こけし製作の技法を学び、新型こけし等の製作を始めた。 昭和30年6月青森に戻り、父の紹介で、その年の9月より温湯の盛秀太郎について正式に木地を学び、また伝統こけしも製作するようになった。奥瀬鉄則は兄弟弟子である。 間もなく父善吉は勤めていた温湯発電所を定年退職し、温湯の浅瀬石川沿いの山麓に家を建てて、崖山公園としたので、昭和33年善二は独立して、その公園内に作業所を作り、こけしの製作に取り組んだ。最初はあまり売れず、自身のこけしを風呂敷に包んで背負い、自ら青森駅前や浅虫温泉のみやげ品店をまわって販路拡大に努めたという。 地域の振興にも熱心で、黒石市東英中学校の活動の一つに「こけし教室」を企画し、生徒にこけし作りの指導をした。阿保六知秀、小島俊幸、一戸一光等の弟子を養成した。 善二の長男佳樹も昭和46年より善二のもとで木地の修業を始めた。 昭和48年には笹森淳一が、昭和55年には本間直子が弟子入りした。妻女の信(のぶ)もこけしの描彩をした。性格は社交的でリーダーシップもあり、地域の要職にも就いて活躍した。 昭和59年7月胸に痛みがあり入院、10月には心不全で再入院、小康を得て退院したが、昭和60年6月20日心筋梗塞のため没した、行年61歳。
佐藤善二 昭和56年1月25日 名古屋松坂屋百貨店実演
〔作品〕 昭和31年8月より、旧型こけしの製作を始めたが、当初は墨絵(墨一色の描彩)の本人型が多かった。こけしに手足が無いのは可哀そうだと胴底に足を描いたこともあった。昭和33年の独立以後、斎藤幸兵衛の型を作るようになり、頭部に髷があり、胴模様に牡丹を描く作品を盛んに作った。この幸兵衛型が善二の基本形となった。
昭和43年2月鹿間時夫の勧めにより、佐藤伊太郎型を復元、また昭和44年頃から小寸作り付けの多兵衛型を製作した。昭和55年にはこけしの会の「こけし古作と写し展」に植木昭夫蔵の山谷多兵衛の写しを出展した。この多兵衛は首がキナキナと動く特異な形態である。
〔右より 24.3cm(昭和44年)幸兵衛型、18.3cm、18.5cm(昭和43年5月)伊太郎型(橋本正明)〕
〔右より 30.3cm(昭和54年)、36.4cm(昭和45年頃)(高井佐寿)]幸兵衛型二種
右側は晩年の幸兵衛型で善二の個性が強く出るようになった。
〔26.7cm(昭和55年)(橋本正明)〕山谷多兵衛型 こけしの会「こけし古作と写し展」
戦後、温湯は盛秀太郎一人が孤軍奮闘していた感があるが、佐藤善二と奥瀬鉄則が弟子となって盛んに活動するようになり、ようやく活気づいた。特に善二は外交的で行動力もあり、各地のデパート等の催しに参加して、津軽こけしの普及宣伝に努めた。弟子も多く養成しており、今日の津軽こけしの隆盛の礎を築いた工人として重要である。
〔伝統〕 津軽系温湯亜系
〔参考〕