山谷三千男(やまやみちお:1936~2010)
系統:津軽系
師匠:見取り
弟子:
〔人物〕 昭和11年10月5日、薬局経営山谷繁太郎、チヨの四男として青森県黒石市温湯鶴泉に生まれる。黒石高等学校在学中に事情があり家を離れ、東京の友人を頼りに旋盤工等の仕事をした。その後独学で薬剤師の免許を取得して家業を継いだ。祖先の代から地元名士の家系で、三千男は謡曲の師匠でもあり、10名近い弟子に教えていた。その弟子の中には佐藤佳樹、小島俊幸、阿保六知秀、盛美津雄等もいた。
昭和55年に津軽こけし館の建設の計画が起こり、町興しになると地域で盛り上がった。佐藤善二、千年敬造(旅館経営)と3人で実行委員会を立ち上げて全国行脚して館内に飾るこけしを集めた。昭和63年4月15日オープンの日のことを、「娘の嫁入りを見ているような気持ちでした。不安が大きかっただけに、紙包みを開けてこけしを並べている時には、やっとこけしたちに安住の地を作ってあげる事ができたという満足感がこみ上げてきました」と感慨深げに述べていた。
山谷三千男がこけしの製作を始めたのは、昭和64年1月からである。実演工人が残す廃材が勿体ないと半端木地を使いこけしを作ってみた。初期作はそのような理由から2寸~5寸の小寸物が多く、まつ毛や開目顔にアヤメ、牡丹、朝顔等の花模様、裏模様にてんとう虫等を配した作品が多かった。こけしを手掛ける以前には切り絵を趣味としていたが、画題として朝顔とアヤメは得意であった。津軽こけし館で実演工人が不在の時や閉館後に製作を試み続けた。木地は独学であったが謡曲の弟子の複数の工人達からアドバイスを受けて一通り挽けるようになった。最初は製作した作品をこけし館の清掃係の婦人に送呈していたが、残念ながらその婦人の家は火事に巻き込まれたため、山谷初期こけしは殆ど焼失してしまったという。
平成4年から10年まで津軽こけし館の2代目の館長を務めた。この時期はこけしの製作からは離れていた。
館長を退任した後に、佐藤佳樹の工房で轆轤を廻すようになった。人望が厚く皆から先生と呼ばれ津軽工人達の良き相談相手としてサポートを行うようになった。
体調を崩し入退院を繰り返したが、平成22年1月24日に没した、行年75才。
盛美津雄とは親戚関係で合作こけしも残っている。
なお平成15年11月に、西山英樹著〈Ⅴ・こけしの夢 幻のこけし 山谷三千男コレクション〉8部限定が出版されている。
〔作品〕盛秀太郎の戦後の型を本人なりにアレンジしたこけしを作った。奥瀬鉄則や盛美津雄とも違う世界のこけしをユニークに型に捉われず製作した。
〔右より 16.4㎝(昭和64年1月)、12.5㎝、15.2㎝、14.8㎝(平成元年)17.3㎝(平成2年)12.5㎝、8.5㎝、10.5㎝(平成3年)(中根巌)〕
誕生祝等で地域の住民にプレゼントする事がほとんどで商売として販売した事は無い。又、大の阪神タイガースファンで阪神がリーグ優勝した平成16年にはタイガースこけしを製作したこともあった。
〔右より 23.8㎝、23.6㎝(平成15年7月)、23.4㎝(平成15年8月)、25.5㎝(平成16年1月)阪神タイガースこけし、25.4㎝(平成16年1月)、26.8㎝(平成16年6月)(中根巌)〕
〔伝統〕津軽系温湯
〔参考〕
- 中根巌:山谷三千男さんのこと〈木でこ・207〉(平成27年1月)