佐藤寅治

佐藤寅治(さとうとらじ:1866~1937)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤周右衛門

弟子:佐藤栄治/小原直治/佐藤直助/佐藤直蔵/杉浦健治/佐藤好雄/佐藤護/大原正吉

〔人物〕 慶応2年11月18日、宮城県刈田郡宮村161(遠刈田新地)の佐藤周右衛門、志の二男に生まれた。母志のは刈田郡曲竹の松嵜長兵エの長女。寅治は明治10年12歳より父周右衛門につき二人挽きロクロを修業した。明治17年10月、兄周治郎家督を相続して本宅に残り、父周右衛門は隠居となって、弟直治・直助・直蔵は寅治とともに分家として新宅へ移った。
明治18年、田代寅之助が遠刈田に来て一人挽きを指導したときに田代について足踏みロクロの技術を習得した。以後、弟の直治・直助・直蔵に一人挽きを伝承した。明治20年には弥治郎の毛利栄治(佐藤栄治)が寅治の家に一人挽きの新しい技術を学びにきた。
寅治は明治23年4月に柴田郡関場の柴崎利吉長女もとと結婚し、同年10月に宮村160番地に分家した。寅治は、明治25年ころは(大宮)源八工場に木地物を卸していたが、明治27年に日清戦争に従軍した。帰郷後明治28年ころから、柴田郡川崎村前川(青根)の小原仁平工場の職人として働いた、弟直治は明治29年2月にこの仁平の養子となった。明治31年飯坂の佐藤栄治の紹介で、福島県飯坂出身の杉浦健治を弟子とした。このころには盛んに木地物を蔵王高湯まで売り歩いた。
明治40年、吉田峻治の木工所で職人をしたが明治41年閉鎖、翌42年より北岡仙八が始めた木工所の専属の職人となった。大正4年寅治三男の護が木地の修業を始めた。大正5年より黒川郡嘉大神で木地の教師を務めたが、このとき護も同行した。寅治には護の兄として好雄という男の子もいて、やはり木地を挽いて嘉大神でも働いたが、ここで流行したスペイン風邪に罹って亡くなった。
寅治は大正8年に帰郷し、以後自宅で木地を挽いていたが、同10年より北岡木工所の職人となりもっぱら盆類等を挽いた。大正12年より七男正吉が弟子入りした。しばらくして北岡での仕事をやめた。昭和12年2月14日没、行年72歳。

〔作品〕 寅治のこけしは残っていないが、三男護は、黒川郡嘉大神に指導へ行ったときに寅治がこけしを作ったのを覚えていた。寅治は大正前半まではかなり作っていたようである。
 

〔伝統〕遠刈田系周治郎系列。周右衛門から伝承したこけしであったと推察される。

 

 

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