佐藤松之進

佐藤松之進(さとうまつのしん:1875~1942)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤友治/佐藤吉五郎

弟子:佐藤好秋/佐藤広喜/佐藤友晴/大葉亀之進/我妻吉助

〔人物〕明治8年5月20日、佐藤友治・いちの長男として遠刈田新地に生まる。戸籍名佐藤松之助。古い文献では明治5年生れとされているが誤りである。明治14年小学校入学以来、学校の帰りに、本家の友吉のこけし描彩等を熱心に見ていた。遠刈田尋常小学校卒業後、父友治につき二人挽きを短期間習得、明治24年17歳のとき田代の直弟子である従兄弟の吉五郎に弟子入りした。
明治25年18歳のころには、柄杓の仕上げができるほどであった。こけし・達磨・七福神等はこのころから作り始め、描彩に開しては、名手であった母いちから手ほどきを受けた。明治26年から吉五郎と共に大宮源八工場で働き、弟松之丞が弟子となった。こけし・福車・四ツ車・八百屋カゴ・達磨・七福神等玩具を主に作った。明治27年、伊具郡西根村、日下富治三女あきと結婚。明治28年源八工場の閉鎖とともに、吉五郎の小屋で働いた。明治30年、自宅で独立開業し、弟松之丞を助手として、木地に精進した。〈蔵王東麓の木地業とこけし〉によると、松之進がこけしに対して十分に自信ができ、油がのったのは、この時期で、大々人形で一日に25本、大人形で4、50本作ったという。
明治34年より6年間、従兄弟の佐藤広喜が弟子入りし、こけしや玩具を習った。明治40年、吉田竣治工場の職人となったが明治41年閉鎖された。明治42年、蔵王高湯岡崎長次郎方の職人として働いた。同年新地仕送り制度施行により茂吉、円吉、文平、吉郎平、広喜等と共に小室万四郎の専属職人となり、こけしや玩具を専門に作った。当時から円熟した闊達な描彩は、直助と共に有名で、作田栄利や、我妻与四松等も、このときに松之進描彩の影響を受けている。大正6年と7年の二回刈田郡役所のすすめにより、七ケ宿村稲子の木地講習会の教師として技術指導に赴き、多くの弟子を養成した。佐藤豊七郎、佐藤甚助、佐藤豊次郎、佐藤元治郎、佐藤文吾、斎藤庄助、高橋伝治(一説では幸治)、佐藤養之助、熱海嘉兵衛、大葉与一郎、大葉亀之進、青本敬二郎の12名であったが、長く木地をやったのぱ大葉亀之進ぐらいであった。松之進はその後も小室の職人として働いたが、大正8年より次男好秋が、同11年より三男進が松之進につき、木地挽きを始め、50歳を過ぎてからはあまり木地は挽かなくなった。それでも描彩は盛んに行ない、闊達な筆を走らせていた。
這子で紹介されたのもこのころで、青根産の木ぼことなっているが、明らかに松之進のこけしである。昭和5年、四男正人が、同6年五男友晴が木地挽を始めるようになり、同10年には橘文策氏の〈木形子談叢〉により、正式に写真紹介されて、松之進の名は収集界に広く知られるようになった。昭和12年ころまでは、たまに木地を挽くこともあったが、以後は息子たちの木地に描彩だけしていた。昭和15年桑の本より落ちて以後ほとんど描彩もせず、昭和17年3月15日、午後2時に没した。行年68歳。

松之進
佐藤松之進   撮影:橘文策

佐藤松之進   撮影:渡邊鴻
佐藤松之進   撮影:渡邊鴻

〔作品〕 「甘美の直助、剛直の松之進」と遠刈田の二大巨頭として、戦前からその作品は高く評価されていた。
下掲はらっここれくしょんの遠刈田古物と称されていたもの、描彩の特徴から松之進の極古い作といわれている。製作年代は明治30年ころとされているが、これが正しければ松之進20代前半の作である。小寸に用いられる肩のこけた形態、いわゆるコゲスを尺1寸にまで拡大したこの作品は様式的に見ても珍しい。描彩も手の込んだ様式であり、おもちゃというより雛壇などに飾るために作られたものかもしれない。


〔 33.9cm(明治30年ころ)(三春町歴史民俗資料館)〕 らっここれくしょん

下掲右は菅野新一旧蔵で大正7年ころのもの、左は〈図説「こけし這子」の世界〉によると大正末年に天江富弥が青根で求めたものという。


〔右より 25.5cm(大正7年)、23.3cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション

下掲左は有坂與太郎の旧蔵で、〈郷土玩具展望・中巻〉に写真紹介されたもの、後に久松保夫の手に渡り、現在は箕輪新一の所蔵。完成度、格調ともに高く、松之進としての最優品とされる。また遠刈田系のこけしとしての一つの規範となるべき作品でもある。


〔 右より16.8cm(昭和初期)、29.8cm(大正期)(箕輪新一)〕

下掲二本も正末昭初、松之進の持ち味が十分現れた作である。

〔右より 30.3cm(昭和初期)、25.8cm(大正期)(鈴木康郎)〕 
〔右より 30.3cm(昭和初期)、25.8cm(大正期)小室万四郎の職人時代(鈴木康郎)〕

昭和10年代になると頭の形が丸くなる。現存する松之進はこの年代のものが多い。それ故、俗に「直助は角頭、松之進は丸頭」と言われるが、松之進も本来は角頭に近い。昭和10年代の作品には、五男友晴の木地に描彩を行ったものも多く、丸頭はそのためかもしれない。
下掲右端の作り付けは、胴の左右に花模様を配する。これがどてらの袖のように見えることから、俗に「どてら型作り付け」と呼ばれる。


〔右より 12.7cm、24.2cm(昭和13年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

松之進の母いちは描彩の名手として知られた。友晴著の〈蔵王東の木地業とこけし〉にはいちの描彩が正確な版画として紹介されている。また松之進は昭和8年橘文策の依頼によって、遠刈田の各時代の描彩全25図を「木地人形記」として記録している。各時代の描彩図案の変遷を知る上で貴重な資料である。「木地人形記」の図は、単色版であるが橘文策著〈こけしざんまい〉、〈こけし手帖・37〉に紹介されている。
直接の弟子以外にも、その弟子の系譜を継ぐ工人たちが松之進の型を継承している。松之進の型に間接的影響を受けたものはさらに多い。

系統〕 遠刈田系吉郎平系列 松之進型の復元に取り組んだ工人として、佐藤好秋、六郷満、六郷仁美、佐藤正廣広井政昭、佐藤保裕、我妻敏らがいる。

〔参考〕

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