嶋津彦三郎

嶋津彦三郎(しまづひこさぶろう:1897~1969)

系統:津軽系

師匠:田中重吉/嶋津彦作

弟子:嶋津誠一/新山久一

〔人物〕 明治30年3月1日、嶋津彦蔵二男として青森県南津軽郡山形村温湯字新道に生まれる。 
大正3、4年、兄彦作と共に大鰐町に移り、木地業田中重吉宅に兄弟とも世話になった。津軽では木地業は一子相伝の決まりがあり、兄彦作が木地を継いでいたので彦三郎は父彦蔵からは木地を習うことができなかったが、大鰐に移ってからようやくこの重吉について木地を習得することができた。
大正8年ころ、間宮の家の隣りで独立し、松岡新太郎を弟子とした。柄杓・茶入れ・腰高等の雑器やズクリ・じようば(砧)・こけし等の玩具類を作り、こけしの描彩も行なった。ロクロもこの頃には二人挽きから、足踏みの一人挽きに変わっていた。
大正13年兄彦作が社長となって木工会社が開設され、動力ロクロを用いて営業を始めた。彦三郎、松岡新太郎、長谷川辰雄、佐々木金次郎、山谷権三郎等が職人として働いた。
津軽の木地業は元来組合を持ち、津軽藩の制定した木取取締要目という規則に縛られていた。その規則は、木地挽きは長男のみに伝承し、他国の木地師の入国は禁止するという排他的、封建的なものであったが、この木工会社の設立がこの規則を形骸化、無効化させる一因となった。以後彦三郎にしても佐々木金次郎にしても多くの弟子を養成するようになった。大正14年には松岡新太郎についで、三上文蔵を弟子にしている。
昭和2年同木工会社は閉鎖となったが、彦三郎はその会社の場所に残って木地を続けた。このころにはこけしの描彩は長谷川辰雄が一手に引受けていた。以後大通りを転々とし、昭和5年ころには花岡肥料店の場所で、同10年ころから寺島魚店の場所でそれぞれ営業を継続した。
昭和19年には長男誠一が木地を始め、同22年に大鰐町大字蔵館字宮本に島津木工所を設立、新山久一を職人とした。昭和25年にはさらに入間誠吾が入門した。このころの描彩者は主に角田商店主であった。昭和30年ころには娘の洋子(現在水木姓)や新山久一等が描彩するようになった。昭和35年ころより島津木工所を長男誠一にまかせ、彦三郎はほとんど木地を挽かなくなっていた。以後の彦三郎名義の作は、誠一の妻幸子の描彩が多い。
昭和44年4月14日没。行年73歳。

島津彦三郎
嶋津彦三郎   撮影:橘文策


嶋津彦三郎

〔作品〕彦三郎名儀のこけしは各種の種類があるため、その描彩者は不明確にしかわかっていない。〈こけし辞典〉では木地と描彩者の組合わせを下表のように整理しているが、この他にもまだ別の組み合わせがあるかもしれない。

下掲はしばたはじめ収集品で、〈東北山村の聚落構造〉の口絵にも掲載された5寸。面描は弘前あるいは大鰐の不明の描彩者によるものと思われる。怪異な表情で妖しい魅力がある。昭和43年に嶋津誠一がこれを復元し、以後この型を作った。


〔(15.2cm(正末昭初)(しばたはじめ旧蔵)

下掲は〈こけし這子の話〉に掲載された彦三郎で、昭和2年作、昭和初期のものまではやはり描彩者不明である。武井武雄収集品は〈日本郷土玩具・東の部〉〈愛蔵こけし図譜〉に取り上げられているが、昭和3年2月に入手したもの、木地はやや細めであるが面描はこの天江コレクションのものに近い。


〔 23.9cm(昭和2年)(高橋五郎)〕 天江コレクション

大正期から昭和初期の彦三郎名儀のこけしには目の細いものや鯨目のもの、また口が紅で描いてあるもの等数種類あり、けっして同一の描彩者とは思われない。松岡新太郎によれば、弘前に専門の描彩者がいたというが、名前は一切不明である。一様に泥臭い素朴なこけしである。


〔 24.6cm(昭和初期)(橋本正明)〕


〔 24.5cm(昭和初期)(調布市郷土資料館)〕 加藤文成コレクション

下掲は〈美と系譜〉にも掲載された矢内謙次収集品、大振りの目と鼻が印象的である。この時期の描彩は長谷川辰雄の手によると言われている。佐々木金一郎がこの型を復元したことがある。


〔 17.5cm(昭和初期)(矢内健次)〕 長谷川辰雄描彩

下掲は、描彩者不明のもの。また木村弦三の収集品(現:弘前市立博物館)の中にもこの西田収集品と同趣のものが数本ある。木村弦三の蒐集時期はおもに昭和3年から9年頃であり、この時期の彦三郎が10本ほど〈こけし時代・第十号〉の綴じ込み冊子に掲載されている。中には三上文蔵と同種の面描のものもあり、三上名儀と同じ描彩者がいた事もわかる。

 
〔 12.1cm(昭和5年頃)(西田記念館)〕 西田コレクション

下掲は〈こけし鑑賞〉に掲載された加藤文成収集品、鹿間時夫は「表情明るく、目は鯨目で嶋津古作のうちまず最大傑作の一つであろう。」と書いた。面描の個々の要素はしばたはじめ蔵と共通するが、妖しさはなくむしろ明るい。


〔 25.0cm(昭和6年頃)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション

下掲の深沢コレクション蔵品も描彩者は長谷川辰雄である。


〔 30.1cm(昭和12年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション 長谷川辰雄の描彩

このように彦三郎名儀の戦前作には描彩数種あるが、すべて木地は彦三郎である。鹿間時夫は「津軽の木地師にとっては木地下こそ重要なのであって、描影はあまり問題にしていなかった。こけしの名儀は木地を挽いた工人であり、描彩者と無関係である。このことは収集家が心得ていればよいことで、本人たちの責任ではない。」と書いていた。ただし戦後作に関しては木地も描彩も本人でないものもある。
戦後のこけしは女性描彩によるものもあり、一様に甘くなった。素朴さを失って全く別趣のものとなっていた。胴には菖蒲を描いているのが多い。
戦前は総じて大鰐のこけしの評価は低かった。武井武雄は彦三郎のこけしを「蝋燭に首の乗った様な風貌、グロテスクな笑い、どうも褒め様に困る娘さんです」と書いていたが、これが津軽の標準的な評価でもあった。津軽の古作こけしの風土に根ざした魅力が評価されるようになったのは戦後になってからであったが、その頃には津軽こけしは活力を失って低迷していた。大鰐の再生は、ようやく昭和40年代になって、嶋津誠一や長谷川辰雄、佐々木金一郎が古品の再現に取り組むようになってからである。

系統〕 津軽系温湯亜系 大鰐
後継者に嶋津誠一がいる。また嶋津木工所で働く工人のうちこけしを製作したものはある程度彦三郎のこけしの影響下にあった。

〔参考〕

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