新山福太郎

新山福太郎(にいやまふくたろう:1898~1965)

系統:弥治郎系

師匠:新山久治郎/久治/佐藤栄治

弟子:新山福雄/小関幸雄

〔人物〕 明治30年1月7日、弥治郎の新山久治郎・さとの四男に生まる。長兄久治との間に久之助、勇の二人がいたが、いずれも幼少時に亡くなった。福太郎は明治44年尋常小学校卒業後、父久治郎、兄久治について木地を習得、同村の佐藤栄治に手直しを受けた。大正3年18歳のとき、栄治時代の兄弟子蔦作蔵を頼って小野川へ行き、約一ヵ月職人として働いた。大正9年東京に出て金工のロクロを挽いていたが、大正10年工場が火災にあい弥治郎へ戻って独立した。大正11年には長男の福雄が生まれた。農業も行ない、農閑期に木地を挽いた。福太郎の名で正式に紹介した最初の文献は〈木形子談叢〉であるが、〈こけし這子の話〉に既に「新山久郎型」として福太郎の小寸が掲載されている。昭和10年には小学校を卒業した福雄が木地の修行を始めた。昭和14年正月には竹井の小関幸雄が弟子入りし、約一ヵ月ずつ3年通って木地を修業した。福太郎は兄久治と違って農業兼業であるため作品数は比較的少ない。作った木地製品は女房つたよが鎌先に運び商っていた。戦後も少しずつこけしの製作を続けた。性は磊落、酒を愛し、相当な酒豪として知られていたが、晩年中風に倒れ、昭和40年12月19日弥治郎にて没した。行年69歳。中風の後、竹の杖を付いて家の回りを歩いていたが、背筋を伸ばした毅然とした姿には古武士の風格が感じられた。

新山福太郎 昭和40年3月

新山福太郎 昭和40年3月

〔作品〕 新山福太郎作と思われる作品を紹介した最初の文献は〈こけし這子の話〉で、下掲写真の中央作り付けの作である。この3本の作者は右から渡辺幸治郎、新山福太郎、新山久治であろう。左2本を〈こけし這子の話〉では新山久郎型として紹介しているが、新山久治郎の家のこけしという意味であって、久郎は久治郎の誤植のように思われる。因みに久治郎は昭和10年まで家督であった。この中央作り付けは戦後長男福雄によって復元された。

〈こけし這子の話〉の図版3 右:幸治郎 左2本新山久郎として紹介された。
〈こけし這子の話〉の図版3 右:幸次郎 左2本新山久郎として紹介された。

〈こけし這子の話〉の後、初期の作例は〈木形子談叢〉〈こけしと作者〉等に紹介されている。昭和10年以前の作は頬紅をつけ裾模様の中央下端に三つの赤い飾りを加える。この赤い飾りを蒐集界では「下駄」と呼んでいる。〈こけしと作者〉など戦前の評価は必ずしも高くなかったが、全体の色調は整っており自然な作風の情感に富むこけしである。 残る作品数は少ないが、「下駄ばき」の福太郎は最もそのよさが現れた時期の作品である。

〔 26.5cm(昭和7年)(小山信雄旧蔵)〕
〔 26.5cm(昭和7年)(小山信雄旧蔵)〕

昭和10年以後になると下駄は消え、頬紅も点状あるいは省略されるようになる。〈こけしの美〉〈古計志加々美〉〈こけし 美と系譜〉〈こけし事典〉に作例がある。

〔右より 15.5cm、23.9cm(昭和15年頃)(西田記念館)〕 西田コレクション
〔右より 15.5cm、23.9cm(昭和15年頃)(西田記念館)〕 西田コレクション

〈こけし 美と系譜〉図版79の米浪蔵昭和14年作は赤・青交互の特異な重ね菊で有名になったが、これは小野川時代に岡崎久太郎よりヒントを得たものであろうという。小関幸雄はこの胴模様を継承したようだ。

戦後もこけしを作り続けたが、やや形式的になり往年の瑞々しさは乏しくなった。

系統〕 弥治郎系新山系列

〔参考〕

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