松田初見

松田初見(まつだはつみ:1901~1989)

系統:鳴子系

師匠:高野幸八/鈴木庸吉

弟子:松田三夫/松田重雄/松田忠雄/菅原直義/熊谷正

〔人物〕  明治34年9月15日、鳴子の松田喜三、くのの長男に生まる。父喜三は栗原郡一迫町の出身であったが、鳴子に移り住んで力仕事の労務に従事していた。母くのは柴崎丑次郎の姉にあたる。
明治45年12歳のとき秋山忠に弟子入りしたが事情があって3ヶ月で中断、翌大正2年13歳の4月より鳴子高野幸八の弟子となり木地の修業を続けた。兄弟子に遊佐民之助がいた。実際の指導は、時々郷里の加美郡宮崎村からきて幸八の店を手伝っていた兄弟子鈴木庸吉に受けたという。最初は馬の尻がい玉、次に独楽、そして地蔵型のこけし、嵌め込みのこけしの順に習ったと言う。大正6年からは月額3円の職人として幸八の作業場で働いた。
大正9年7月に師匠の高野幸八が亡くなったので10月まで店を手伝い、その後独立して、新屋敷(東北大学病院鳴子分院がもとあった場所の裏)で開業した。
独立後、約三ヶ月ほど鈴木庸吉が職人をしていた仙台のサクラ商会で働いた。また大正11年より一年ほどの間、仙台の東北木地漆器株式会社で働いた。ここには初見のほかに職人として、佐藤政次郎、初三郎兄弟、遊佐民之助が働いていた。また大正12年には大沼健三郎に連れられて栗原郡花山村に行き、水車ろくろを使った木地業に従事した。大正15年26歳のとき結婚、その年には、遊佐民之助の手引きで秋田県湯沢の木工場に入り二年ほど働いた。この工場には鈴木国蔵等もいた。昭和2年27歳の時鳴子に帰った。昭和3年に長男三夫、昭和7年に次男重雄が誕生した。
昭和11年〈木形子異報・12〉でこけし作者として名前のみ紹介された。こけしの写真は昭和13年〈木形子・6〉が初出である。
戦前の第一次こけしブームの時期は、鳴子の中堅工人として活躍した。
戦争末期には燃料不足の時代の要請にあわせて木地挽きから製炭業に変わった。
戦後は一時鳴子の大沼宜輔の工場で職人として働いた。この時代の弟子に熊谷正、菅原直義がいる。
昭和23年からこけしつくりを本格的に再開し、以後上鳴子の自家の作業場でこけしの製作を続けた。このころ他出していた長男三夫も帰郷し、初見について木地の修業を始めた。また昭和51年からは三夫の長男忠雄も木地の修業を始めた。
高野幸八の作業場で、幸八とともに働いた経験があり、明治末期の鳴子こけしの状況を語る重要な工人であった。遊佐民之助の古作などは初見の証言があってその作者が判明した。〈こけし手帖・133〉に西田峯吉による体系的な聞書がある。
平成元年10月20日没、行年89歳。


松田初見 昭和17年11月 提供:武田利一


松田初見  昭和47年12月 撮影:浅賀八重子

〔作品〕 大正期の作品で松田初見作と確認されたものはない。工人として紹介されたのは昭和11年以降であったが、昭和7~8年ころには鳴子の土産物屋の店頭には多く並んでポピュラーなこけしであったという。下掲の6寸6分は、昭和8年頃の作、〈木形子・6〉に掲載されたものもこれと良く似た作品であった。おそらく現存する初見の古いほうに属する作品であろう。この時代の作品はよく大沼竹雄と混同されることがある。前髪の後方にこぶ状の膨らみがあるが、この前髪の描法は幸八系列の特徴である。また、鬢は外側に行くほど長く描かれる、竹雄の鬢は同じ長さ、あるいは外に行くほど短く描かれるので区別できる。

〔20.0cm(昭和8年頃)(村山東昌旧蔵)〕
〔20.0cm(昭和8年頃)(村山東昌旧蔵)〕

下の写真の2本は深沢コレクションの蔵品で昭和10年頃の作と思われる。右端尺1寸はフォルムの量感抜群であり、また明眸で端正な顔立ちの松田初見の典型となる作品である。

〔右より 33.3cm、23.9cm(昭和10年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔右より 33.3cm、23.9cm(昭和10年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

昭和12年から14年ころの作品は比較的多く残っている。表情幾分繊細になっているが、幸八系列の特徴はそのまま伝承している。また戦前に小野寺常松名義で売られたこけしは初見の作だと言われている。

〔右より 25.7cm(昭和14年)、30.3cm(昭和34年)(高井佐寿)〕
〔右より 25.7cm(昭和14年)、30.3cm(昭和34年)(高井佐寿)〕

戦後はやや形式的で精気の乏しい作風になっていたが、昭和40年都立家政のこけし店「たつみ」が戦前作の復元をシリーズとして始めた。戦後のものとしての佳品は、昭和40年代前半のこの時期に多い。昭和43年には高円寺のこけし店「ねじめ」の企画で高野幸八型の復元も行った。初見の幸八型は必ずしも成功とはいえなかったが、後に弟子の熊谷正や孫の忠雄、その子大弘などが作る幸八型への橋渡しの役割は果たした。

〔右より 15.5cm(昭和40年6月)たつみ頒布、19.2cm(昭和43年)、16.0cm(昭和44年2月)たつみ頒布(橋本正明)〕
〔右より 15.5cm(昭和40年6月)たつみ頒布、19.2cm(昭和43年)、16.0cm(昭和44年2月)たつみ頒布(橋本正明)〕

系統〕鳴子系幸八系

〔参考〕

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