村元文雄

村元文雄(むらもとふみお:1931~1999)

系統:津軽系

師匠:毛利専蔵

弟子:

〔人物〕 昭和6年6月12日、南津軽郡六郷村(昭和29年の合併で黒石市となる)の農業村元利之助の次男に生まれる。尋常小学校高等科卒業後、農業を手伝いその後製材所に勤務する。昭和31年に肋膜炎に掛かり温湯温泉に湯治に訪れた。盛秀太郎のこけし製作を見てこけし工人になる事を決意した。しかし盛秀太郎への入門は許されず、昭和32年4月に26才で毛利専蔵に入門することが出来た。最初の2年間は木取りだけを徹底的に作業した。昭和35年に独立して弘南電鉄の黒石駅前に店を構えた。この頃、昭和13年12月生まれの千恵子と結婚をした。文雄は当初からこけしを製作したが、その頃の作品は殆ど残っていない。昭和48年頃までは作風は変化無く、重菊の新型風の直胴で、一側目を描いた墨こけしであった。昭和50年頃からは重菊模様を描くのをやめて、カラフルなロクロ線に牡丹模様や椿模様のくびれ胴のこけしに変化した。昭和51年に妻の千恵子と死別、その後、後妻のみきを迎えた。昭和56年頃からはダルマ模様のこけしを作り人気が出てきた。昭和58年7月には6尺5寸重さ130キロのジャンボこけしを完成させ津軽こけし館に飾られるなど充実した時期となった。昭和60年代以降は黒目勝ちの目に加えて、鯨目、眠り目等を描き胴模様の種類も増えた。平成8年には始業40周年を記念して毛利茂太郎型を、翌9年には専蔵型を僅かに製作した。平成10年より体調を崩し療養したが、同11年8月17日腎不全で数え年69才にて逝去した。

尚、山谷レイが平成16年12月から鯨目の村元型を製作したが長くは続かなかった。山谷きよの木地は毛利専蔵が挽いていたが、こけしブームで多忙な頃は弟子の文雄が挽いていたという縁故で、レイが一時復元をおこなった。

〔作品〕 昭和30年代より作り続けているが、初期のものは温湯系の中でも墨のみで重ね菊等を描いた新型の影響の強い一般型であった。昭和50年代に入り師匠である毛利専蔵が普段作っているボタン模様を染料で描くようになった。ただし目は戦後の専蔵のように2本まつげは踏襲せず、意図的に一側目にしている。


〔右より 18.2㎝(昭和46年1月)初期の墨絵重ね菊、18.0㎝(昭和48年7月)、18.1㎝(昭和52年)、24.2㎝(昭和54年)、24.2㎝(昭和55年)、24.4㎝(昭和56年)(中根巌)〕

〔右より 24.0cm、18.0cm(昭和61年)(高井佐寿)〕
〔右より 24.0cm、18.0cm(昭和61年)(高井佐寿)〕

平成8年頃には毛利茂太郎型も作ったが、よく茂太郎の感じを押さえて作っていた。


〔右より 22.5㎝(平成8年3月)茂太郎型、24.2㎝(平成8年3月)茂太郎型、24.5(平成8年8月)、24.1㎝(平成8年8月)、33.7㎝(平成9年11月)専蔵型、18.2㎝(平成9年3月)、18.1㎝(平成9年7月)(中根巌)〕

〔伝統〕 津軽系温湯系列

〔参考〕最初の妻の千恵子(昭和13年12月生まれ、昭和51年没)、後妻のみき(昭和9年2月5日生)、長女の淳子(昭和37年10月13日生)、二女の優子(昭和42年11月20日生)も蒐集家の求めに応じてこけしを描彩した。特に後妻のみきは描彩が巧みで店頭に並べて良く売れていた。みきのこけしは昭和の末から平成5年位まで描かれた。現在みきは老齢のため施設に入っている。千恵子は昭和44年頃に少し描いた。淳子は昭和56年11月から描きだしたが、翌年4月より東京に出て勤め、以後は帰省の際に描いた作品が少数確認されている。優子は昭和62頃から平成8年頃に描いた。優子は黒石市在住である。


〔右より 14.8㎝(昭和44年5月)村元千恵子、18.2㎝(平成2年)優子、24.7㎝(昭和56年11月)淳子、24.5㎝(平成元年1月)みき、20.0cm(平成12年5月)みき(中根巌)〕

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