阿部金治郎

阿部金治郎(あべきんじろう:1888~1965)

系統:独立系

師匠:見取り

弟子:

〔人物〕株式会社丸金の創業者で郷土玩具・民芸品・食品の製造販売を行なった。
明治21年4月6日、立川町狩川(現在は、東田川郡庄内町狩川)にて生まれた。
大正7年に鶴岡に出て材木商阿部金治郎商店を起業した。大正8年の大洪水で、鶴岡市五十川に備蓄していた大量の材木が日本海に流出し、大きな経済的な打撃を受けた。現代の価値にすると1億円近い損失だった。その後、昼夜なく身を粉にして働き、大正11年に製材所を立て事業の拡大に成功した。米杉、米松の長尺物、樺太材や北洋材を仕入れて製材した。建築材料に使われ、鶴岡郵便局や広瀬、黒川の学校の改築材木も一手に納入した。関東方面にも毎月貨車で販売した。

裏日本実業案内(大正14年)

しかし事業は大正12年9月1日の関東大震災で一変することとなった。販売先の問屋が潰れてしまい売掛金が回収出来なくなり膨大な借金を抱えた。金治郎は裸一貫で投げ出され、残材を利用して羽黒の登山杖やスキーを製作していたが、やがて丸金と称して民芸品の製造販売業を起こした。郷土玩具として、いづめ子人形、こけし、御殿毬、風俗人形、豆雪沓等200種類の商品を取り扱った。
戦後の民芸品ブームに乗り昭和30年代の初めには、丸金には専属内職者が1500人程いて、国内の販売先は1000社、アメリカ、フランスにも輸出していた。こけしは、阿部常吉、大滝武寛、軽部留治、戦後には石塚智、五十嵐嘉行のもの、さらに山形、蔵王、鳴子のこけしや、新型や創作こけし等も取り扱っていた。
昭和40年12月16日没、行年78歳。
なお、既往の文献で「金次郎」とするものもあるが、「金治郎」が正しい。

阿部金治郎

石塚智からの聞き書き(平成30年10月26日)によると「自分のこけしは長らく丸金に納めた。こけしを辞めた理由は材料が無くなったからで、その後は金治郎の勧めで焼麩製造業に転じ、焼麩を丸金に販売して生計を立てた。金治郎は面倒見が良く任侠肌で、筋の通らない事には頑として動かない人だった。話は少し逸れるが、阿部常吉は職人は実家を離れて修行しなければならないという自身の方針から、息子の進矢を半年ほど地味興屋の自分の家で預かったことがある。」と語っていた。ただし、進矢にその事を確認したところ否定していたので実際のところは不明である、

 〔作品〕金治郎が扱った民芸品の中で木地製品関係では、いづめ子作家でその第一人者であった大滝武寛のものを大正初年頃から扱い、金治郎自身も大正末年からいづめ子を盛んに作るようになった。こけしに関しては、おそらく金治郎がこけしの木地を手配をして大滝武寛や軽部留治に描かせたのだと思われる。木地は鳴子の高亀などに依頼して取り寄せたものであろう。頭から胴へと嵌め込む鳴子式の木地であった。
金治郎も、材木商から郷土玩具製造販売業と業種転換する中で、自家製造を目指して自らも描き方に関与するようになったと考えられる。下掲左端のように、五弁の花模様を胴の裏まで描き込んでいて、顔は温海のものを参考にしたようなこけしであった。素朴でなかなか味わいのある作風であった。
下掲右端は志田菊宏が北原直喜蔵の金治郎を再現したもの。再現に当たっては、金治郎の長男圭太郎(昭和3年4月6日生、平成24年7月31日没)の妻雅子(つねこ)(昭11年2月6日生)に製作許可を得たという。令和元年9月22日の大阪こけし教室例会で初頒布。


〔右より 12.0cm(令和元年5月)志田菊宏模作、12.2cm(昭和12年頃)阿部金治郎(中根巌)〕

既往の文献として、〈愛玩鼓楽〉(鈴木鼓堂)と〈こけし綴り〉(北原直喜)に写真が掲載されている。

〔伝統〕独立系

 

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