佐藤桝男

佐藤桝男(さとうますお:1921~1997)

系統:山形系

師匠:日下源三郎

弟子:

〔人物〕大正10年9月19日、郡山市安積町日出山(ひでのやま)に生まれた。昭和14年に米沢に行って、日下源三郎ついてに木地を学んだ(〈伊勢こけし・4〉、〈全工人の栞〉では、昭和12年入門とあるが後述の川口記述の年次に従った)。鈴木秀斉は弟弟子である。復員後、故郷に戻り日出木工所で働いた。昭和20年頃に郡山市逢瀬町多田野出身の菅野松代と結婚、21年12月に長男、勇一が出生した。その下に弟と妹がいる。勇一の話では母と3人兄弟は多田野の母の実家で暮らし、桝男は日出山の木工所に勤務して休日だけ帰って来たという。昭和26年白石市白石沖に引越し家族が同居、新型こけしの木地屋として独立した。職人を3人程雇入れ営業している時期もあった。一時、酒井某が経営する白石市の宮城野工芸の職人となり、盆、サラダボウル、ハイチ盆等を挽いた事もあった。近くで猪狩勝彦が木地屋をしていたが深い交流は無かった。昭和50年2月しばたはじめ氏により紹介されこけしを復活した。昭和54年に白石市大平森合に自宅と工場を新築して移り木地業を続けた。
尚、長男勇一も昭和42年20才の頃から昭和57年35才まで桝男の下で新型こけし木地を挽いていた。新型業者からの下請け仕事が多く半製品で渡す事が多かった。遠刈田温泉の我妻与四松・昭三の店「よしまつ」には白木地の完成品で納めていた。勇一はこけしの木地挽きだけで描彩は手掛けた事はなく、盆・椀類は挽かなかった。桝男から昔の事を殆ど聞いていないので、日下源三郎、鈴木秀斉の師弟関係の事等は知らず、桝男がこけしを描彩した事も蒐集家からの話で知ったとの事である。ただ本籍地が日出山という事と米沢で木地修業した事は間違いないとの事であった。
昭和22年4月発行の川口貫一郎氏のハガキ版〈こけし・10〉に「日出ノ山こけしー郡山市外日出山佐藤益雄作 同人は日下源三郎の弟子にて同地日出木工所に働く。各地売店にてよく見るこけし作者不明なこけしであった」と紹介した。続けて同年5月発行の同誌〈こけし・11〉に「10号にて発表の工人佐藤益雄は27才目下福島家安積郡永盛町日出ノ山木工所に勤務19才にして日下源三郎に師事復員後米沢より仝地に来る」同年8月発行の同誌〈こけし・14〉には「日出の山こけし残部あり御希望ありませんか 8寸5寸の2本 45、00 〒5、00」、同年10月発行同誌〈こけし・16〉には「左記残部あり乞申込 日出ノ山佐藤益雄こけし8寸5寸組 45、00 〒5、00」と4回に亘り掲載している。益雄としているが出生地名と年令が桝男と一致するので表記間違いであろう。桝男は川魚釣りが趣味で毎週仲間と楽しんでいた。平成2年頃まで木地挽をしていたが平成9年8月31日に逝去した。行年77歳。

〔作品〕昭和50年以降、故郷安積町日出山で作ったものが残っている。山形系風の作で「日の出山こけし」と胴背に書かれているものが多い。表情は新型の雰囲気が残っている。
旧型作成時にしばたはじめの指導があって、山形の小林誠太郎などを参考にしたかもしれない。
舟山テル名義で蒐集家の手にわたったものもある。


〔左より 18.2㎝(昭和63年(中根巌)伊勢こけし会茶談会お土産こけし、18.5㎝(昭和50年2月)(中根巌)、15.1㎝(昭和22年ころ)(中根巌)舟山テル名義。箕輪新一旧蔵〕


上掲三本の胴底記名。左端63年は「桝男作」と楷書で書き、中央50年作は「さとう桝男」と続け文字で署名した。8寸の作風は図録「伊勢こけし会 定期頒布」(平成28年2月伊勢こけし会発行)右端の舟山テルはおそらく蒐集家による鉛筆記名


〔23.7cm(昭和50年頃)(ひやね)〕舟山テル様式

〔伝統〕山形系一般型

〔参考〕

・中根巌:「日出の山こけし」伊勢こけし会だより・173(令和5年6月)

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