舟山照子(ふなやまてるこ:1919~2004)
系統:山形系
師匠:
弟子:
〔人物〕大正8年1月6日、新潟県新潟市山田町の山岸壽治、ハツの長女に生まれる。父の壽治は公家の流れをくむ東條家の出で、山岸家の養子となった。照子は裕福な幼少期を過ごし、絵を描くことを好んだ。昭和13年頃から米沢の舟山嘉作の挽いたこけしや、米沢人形の絵付けを好んで行うようになった。梅の絵模様を好んだ。舟山嘉作と結婚、10人の子宝に恵まれた。嘉作は明治気質ので曲がったことの嫌いな実直な性格だった。
戦後は農地解放のため生活は一変し、舟山家は木地業から離れて茅葺の材料加工などを行うようになった。嘉作は昭和47年8月28日78歳で他界、照子は長くこけし描彩から離れていたが、平成元年梅木修一の木地を持参した矢田正生、山本吉美の依頼により描彩を行ったことがあった。描彩は平成2年1月まで4回ほど行ったという。戦前から舟山テル、てるなどの名で紹介されたが照子が正しい。また〈辞典〉では「船山」で項目が建てられているが「舟山」が正しい。〈辞典〉には「こけしは新型に近く、当時米沢にいた橋本力蔵が挽いた木地に描彩」とあるが照子が戦前夫の嘉作以外の木地に描彩した記憶はないと子供たちは語っていた。〈鴻・第2号〉によれば昭和15年前後ころ、都会のデパート、各地の温泉場へ大量に売り出されたという。
平成16年10月25日没、行年86歳。
〔作品〕舟山照子の描彩は、当時米沢で作られていた山形系作者(小林吉太郎の弟子達等)のこけし等を参考にした一般型であろう。
下掲は蔦作蔵を意識した作と思われる。
下掲5本は、平成に入って名古屋こけし会の矢田正生、山本吉美の依頼で、梅木修一木地に舟山照子が描彩したもの。幾分モダンになっているが、戦前の作風をしっかり維持している。
〔左より 24.6㎝(平成2年1月)、25.2㎝(平成元年11月)、30.5㎝(平成元年6月)、24.8㎝(平成元年3月)、19.0㎝(平成元年6月)(矢田正生)〕
なお、佐藤桝男のこけしが一時船山てる名義で出たことがあった。
〔伝統〕山形系一般型
〔参考〕
- 中根巌:舟山嘉作、照子のこと〈木でこ・250号〉名古屋こけし会(令和5年9月10日)