伊藤長作文書

山形県最上郡舟形町長沢の伊藤長一の家に伝わった木地寸法帳の「覚」。

この文書の最初の報告者は東京こけし友の会の会員吉田健次で、〈こけし手帖・56〉(昭和39年)にその発見の経緯と概要が紹介された。そのときに長一から下記のような聞き書きを取っている。
「木地は二代目なんですが、父石之助は、長沢の野生まれで炭焼きやら農に従事していて木地は受け継がなかったのです。祖父長七は、やはり長沢の野に生れ、明治16年11月この家を建てたのですが、80年余り経っています。祖母は鬼首から来た人です。祖父は、私が16歳位に亡くなりました。幼いときに柿の樹から落ちて、片足が不自由だったと聞かされています。師匠ですか、それが父もよく記憶していないと言うのです。何んでもこの家が建った頃、旅人が泊まって指導を受けたと聞きました。名前は全然分かりません。作った木地物は、独楽、柄杓、茶壺、杵と臼、茶具、煙草入れと南蛮入れ、台付盃、ローソク立、漏斗、重箱、釜などなのですが、こけしは作らなかったようです。これは、『覚』という木地の絵図入りの巻物が残っています。字が明らかでないですが、明治9年8月と読まれます。尤もこの図の中に、こけし大一番六寸、中二番四寸、小三番二寸五分とありますが、六寸だけ眉があり、他の二本にはありません」

吉田報告には「覚」の写真はなく、写真紹介は橋本正明による〈こけし手帖・150〉が最初となった。ただし、〈こけし手帖・150〉の稿は編集者の校正が杜撰なため誤植が多く、文書の読みに誤解を受ける部分があったのは残念であった。

「覚」に描かれた大中小のこけし

「覚」に描かれた大中小のこけし

しかし、写真掲載は多くの情報を与えてくれた。まず、このこけし絵は鳴子と言っても今の鳴子よりはるかに古い形式のものであり、鳴子こけしの祖系を議論するにも極めて貴重な資料であった。描かれたこけし絵の鬢の毛や頭頂水引は、頭部に貼り付けたように描かれているが、これは描法を示したもの、普通のこけしと同様に頭部に描かれたものと見てよいだろう。胴に花模様が描かれていたかどうかは分からない。この絵のように白胴のままだったかも知れないし、この文書では省略されているが何らかの模様があったかも知れない。鳴子の古老大沼岩太郎が「こけしは前は大坊主小坊主といって独楽などと一緒に作っていたがその頃は彩色しなかった」と語ったという話もあるから、これもその頃の胴に彩色しない時代のものかも知れない。

「長作」と思われる署名

「長作」と思われる署名

またこの巻物の描かれた年代は明治9年ではなく、巻末の日付から明治19年8月25日であること、また日付と共に「山形県出羽国最上郡新庄長沢村 長作」の署名があることもわかった。この署名を長作と読むかどうかについてはいくつかの議論があった。古文書の専門家でも「長作」「善治」に分かれ、やや「善治」が優勢であった。ただし、伊藤長一の家には、長一祖父長七の長兄に当たる人物に長作がいて、二男長七は明治20年4月に長作から分家している。旅の木地師が訪れた明治19年にはまだ家督は長作で、この「覚」の署名は家督の長作が行ったものであろう。こうした考察からこの巻子を一応「伊藤長作文書」と呼ぶようになった。

この旅の木地師の氏名は分からない。ただ、描かれた製品を見ると立木の小物製品が多く、横木の大物挽きではなかったように思われる。

〈こけし手帖・150〉では鳴子の工人であろうとして、瀬見でこけしを作ったとされる大沼勝三郎を候補として挙げている。ただし確証はない。
一方、長七妻女スエは栗原郡鬼首村の出身、長七は終生二人挽きで綱取りはスエが行っていたという。長沢と鬼首は小国街道で繋がっているから、木地を伝えたのは鬼首の木地師かもしれない。長七の木地習得は、足の不自由な身で生計を立てるための策であって、その師は偶然の旅の木地師というよりも何らかの伝手による招聘であった可能性もある。

西田峯吉は〈増補:鳴子・こけし・工人〉でこの「覚」のこけし絵を写真で掲げ、「この記録によって、明治19年以前に鳴子で「こけし」の呼称があったこと、鳴子こけしに大中小の別があって、それぞれ6寸、4寸、2寸5分の寸法でつくられていたこと、形態は現在のこけしに近く、眼は一筆目、前髪はいわゆる水引手風に描いたことが分かり、資料として貴重なものである。」と書いている。

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