水引手

御所人形で前髪を水引で結んだ頭部模様を描いたものを「水引手(みずひきて)」と呼んでいる。この様式をこけしの前髪として描いたものに対しても、「水引手の描法」「水引を加えた前髪」などと表現する。

水引(みずひき)は元来、祝儀、不祝儀の進物を紐で結んで贈る場合、その結んだ紐を言う。祝儀には赤白、不祝儀には黒白の水引が使われた。水引の起源は、室町時代の日明貿易において明からの輸入品の箱全てに赤と白の縄が縛り付けられていたことによる。明としては、これは輸出品を識別するための符牒であったが、日本ではこれを敬意をもった進物のしるしとして用いるようになった。(一説には、小野妹子時代に既に、隋からの輸入品は紅白の麻縄で結んであったともいわれる。)
通常、水引は丈夫な和紙を用いて作られる。
水引の語源は、紙を縒って作った紐の縒りが戻らないように糊を含んだ水を引いて乾かし固めたことからとする説と、縒った紙紐を染料を入れた水の中で引きながら染めたからという説がある。

この水引を人形の前髪を結ぶ装飾に応用したのは、京都の人形師面吉で文化年間のことといわれる。御所人形は、江戸末期に宮廷から諸大名への贈答用、あるいは西国大名が参勤交代の際の大奥への土産物として盛んに作られるようになったが、当時の京人形師としては、面吉、面卯などが名工として有名だった。祝儀用のお祝い人形には前髪に赤い水引をあしらったのである。水引を描いた御所人形は「水引手」と呼ばれる。

水引手の御所人形
水引手の御所人形

御所人形に描かれた水引の文様は、広く各地で作られる土人形にも、張子の人形にも取り入れられるようになった。東北でも、堤人形、相良人形、花巻土人形などで水引手のものが多く作られた。
下の写真の堤人形も前髪の飾りには赤の水引を描いている。

水引手の堤人形
水引手の堤人形

こけしの発生には、先行する土人形や張子の人形の影響が大きいといわれる。水引を描く手法は、こけし発生の時点からそうした先行人形の影響で採用されていたであろう。
下に示す「おいちの描彩」は、遠刈田の描彩の変遷を示すものであるが、最も古い様式の第1図は、まだはっきりと水引の様式を残している。遠刈田は水引の紋様から出発して、今日、俗に「手絡」と呼ばれる大輪の赤い放射線紋様に発展して行ったのである。

遠刈田 おいちの描彩 〈蔵王東麓の木地業とこけし〉
遠刈田 おいちの描彩 〈蔵王東麓の木地業とこけし〉

これに対して、鳴子は今日でもまだ水引の様式をかなり残している。紙紐だった水引は、あたかも花飾りの様に描かれているが、前髪から後ろに伸びる髪を結ぶ水引の変形である。

大沼岩蔵の水引
大沼岩蔵の水引

佐藤乗太郎の水引
佐藤乗太郎の水引

桜井昭二 岩蔵型の水引
桜井昭二 岩蔵型の水引

大沼健三郎の水引
大沼健三郎の水引

大沼秀雄 岩太郎型の水引
大沼秀雄 岩太郎型の水引

大沼秀顕の水引
大沼秀顯 の水引

一方、土湯においては頭部に蛇の目が描かれるようになった。前髪から後ろに伸びる黒髪の部分が蛇の目に変わったとする説もある。蛇の目に変わったことにより、水引の装飾部分は頭部の左右に押しやられ、両鬢の上のほうに描かれる様になる。いわゆる「かせ」である。
下の写真は阿部金蔵の描く「かせ」であるが、これは水引の変容であることがかなりはっきりわかる。

阿部金蔵のかせ
阿部金蔵のかせ 水引の変容

このように、こけしは先行したみやびな人形たちの遺産を確実に継承し、それを発展、変容させながら完成したものであることがわかる。決して東北の山村の単に素朴な木人形ではない。しかも、赤の水引を配した、お祝いの人形であった。

 

 

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