秋田亮

こけし収集研究家。昭和元年12月5日、香川県丸亀市に生まれた。四ツ目饅頭で知られる老舗四ツ目屋の長男。同店は嘉永6年の創業、京極藩の御用をつとめた菓子商で、高松市に支店があった。亮は6歳で吾妻春繁について鳴滝流舞踊を習い、14歳で東京の坂東三津之丞について坂東流を習い、17歳で坂東雅之亮の名を許され名取りとなった。昭和25年の大仏開眼1200年祭においては、奉賛のため東大寺仏前で創作舞踊「虚空」を発表した。
昭和29年よりこけし収集にはげみ、また民芸研究にも志した。この時期に、こけし関係の私家版出版物を続々と刊行したのは、福島市の佐藤泰平と南北好一対であった。
〈こけしのすたるじや〉小椋久太郎号(昭和30年1月)、同佐藤吉雄号(昭和30年3月)、同こけしの明眸号(昭和30年4月)、リーフレット〈 斎藤源吉〉(昭和30年5月)、〈木地山の久太郎こけし〉(昭和30年7月)、〈鳴子こけし〉(昭和30年7月)、〈古鳴子と勘治こけし〉(西田修、昭和30年9月)、〈佐藤文助のこと〉(菅野新一、昭和30年9月)、〈蔵王東の木地業とキボコ〉その1ーその2の五(菅野新一、昭和30年11月-31年4月)、〈古鳴子追想〉(西田峯吉、昭和31年8月)、〈ふるさと〉私家版第1号 (昭和33年5月)ー第9号(昭和34年1月)〉等がある。昭和31年5月友情遺稿〈遠刈田新地、青根の木地業とこけし〉を出版したのは、まとまった業蹟であった。
なお、西田修は西田峯吉の筆名である。〈古鳴子と勘治こけし〉、〈古鳴子追想〉は後の〈鳴子・こけし・工人〉(未来社)にまとめられた。


古鳴子と勘治こけし(昭和30年9月)、古鳴子追想(昭和31年8月)

さらに、日本こけし連盟の結成、こけしと民芸の旅の提唱、深沢要賞の設定、倉敷民芸館へのこけし寄贈等こけしの普及宣伝活動への尽力もあった。
月刊誌〈ふるさと〉には米浪庄弌の古民芸の美、加藤増夫の四国の古玩と並び、地菓子の記事を書いた。鹿間時夫は「秋田亮のこけし収集はたぶんに審美的で、甘美なものが好きであった」と書いている。木地山の尺五のエジコを多数注文したりした。
元来蒲柳の質であったが、昭和34年2月22日脳血栓で急逝した。行年34歳。
兵庫町の横町に民芸風和菓子の四ツ目茶屋を開店する準備中であった。秋田亮の唯一の弟収も昭和31年29歳で没している。秋田亮のコレクションは没後分散した。

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