鈴木国蔵(すずきくにぞう:1897~1957)
系統:木地山系
師匠:野田久之助
弟子:鈴木幸太郎/井川武松
〔人物〕 明治30年8月29日秋田県雄勝郡湯沢町御囲地の写真師鈴木勝治の長男に生まれる。木地は17歳より約1年間能代工業講習所で学んだ。講師は野田久之助であった。湯沢の松江謙太郎は弟弟子である。その後、各地を転々として木地業を続けたが、主に働いた場所は、山形県金山の小野寺泰治方(約2年)、新潟県田口温泉杉ノ沢木工所(約2年)、秋田の曲木木工所(秋田木工)、山形県及位の佐藤文六工場(及位木工場 約2年)等である。その後大正9年頃湯沢市御囲地に戻って独立開業し、さらに昭和11年に湯沢市下新地へ移って木地業を続けた。製品は主に盆類であり、玩具、こけしは頼まれれば挽く程度であった。昭和13年からは長男幸太郎が木地の修業を開始した。
〈郷土玩具・東の部〉で名前のみ紹介され、〈こけしと作者〉で始めて写真紹介された。ただ、この頃のこけしは描彩者が別人という説もあり実態はつかみにくい。昭和15年10月の〈鴻・第4号〉で詳細の経歴とともに新作者として紹介された。
若いころから目が悪かったが、昭和18年頃より視力低下が進み、以後はほとんど作っていない。昭和32年3月26日没、行年61歳。
鈴木国蔵 昭和31年8月 大浦泰英撮影
〔作品〕 もともとこけしは作らなかったが、湯沢に戻ってから、妻ヤスの実家の子供に作ってやったのが最初という。〈こけしと作者〉に掲載された国蔵こけしは、昭和10年に橘文策が東京の三五屋より国蔵として譲られたもので、作り付け、頭と胴の間に首のある形状、襟を描き。井桁模様のある前垂れを描いている。
ここに写真で示すものは石井眞之助旧蔵で橘文策のものと同じ時期のもの、製作時期は昭和8、9年であろう。こちらは襟付きの花模様の着物、そして網代模様の前垂れをしている。
〈こけし辞典〉では〈こけしと作者〉のタイプのこの様なこけしを松江謙太郎作の可能性が高いとしている。謙太郎は佐藤文六のもとで国蔵と一緒に働いた後、稲住温泉へ移っている。
加賀山昇次が鈴木国蔵について、代金を送ったのになかなかこけしを作ってくれないという苦情を〈木形子・1〉(昭和13年4月)に書いている。現地の知人で小学校の先生をしている人を介して国蔵とやり取りをしているが、その人からの返信に、「早速先方へ参りましたところ言葉使いに曖昧なところがありましたが至極恐縮しておりました故商売道徳とも云うべき事を匂わせて参りました。早速お送りするそうです。松江と申すものに着色方依頼したそうです。」とある。おそらく自分で描彩をしないので、時間がかかったのであろう。これを見るとこの時期までの湯沢こけしには国蔵が木地を引き、松江謙太郎が描彩したものがかなりあったかもしれない。
〔25.5cm(昭和8、9年頃)(石井眞之助旧蔵)〕
松江謙太郎の描彩と思われる。
〈鴻・第4号〉では直接国蔵と会って聞書きし、またこけしも入手しているようで、これは長男幸太郎がその後作ったこけしに近い。
〈鴻〉時代以降は徐々に視力が落ちていたから、国蔵名義のこけしに幸太郎描彩のものがあるかもしれない。
〔右より 24.6cm(〈こけしと作者〉現物・松江謙太郎描彩)、28.8cm、28.2cm(鈴木幸太郎描彩)(沼倉孝彦)〕
沼倉蔵3本のうち、右のこけしが〈こけしと作者〉現物で、鈴木国蔵として紹介されているもの。前掲の石井旧蔵と同じく松江謙太郎描彩と思われる。
左は胴底に鈴木國蔵と署名が入っており、中央は「鈴國」の署名が入っている。これは同時期の鈴木幸太郎の「鈴幸」の署名と同じ筆致であり、幸太郎描彩ではないかと考えられる。
〔左28.2cm「秋田湯沢 鈴木国蔵」、中央28.8cm「鈴国」胴底署名〕
〔伝統〕 木地山系に分類されているが、師匠野田久之助はこけし作者ではない。国蔵のこけしには色々な要素が混交しているが、木地山の要素が多く含まれているので、一応木地山系とすることで落ち着いている。後継者は長男鈴木幸太郎。