石川清志(いしかわきよし:1909~1965)
系統:肘折系
師匠:佐藤丑蔵
弟子:
〔人物〕明治42年2月28日、岩手県和賀郡沢内村大野の農業石川宮蔵(昭和19年没、75歳)、アサノの三男に生まれた。大正11年に一家で川崎市へ出稼ぎに出て、父母は富士紡績㈱に勤めたが、翌12年に母アサノが44歳で亡くなったため帰郷、6月ごろ岩手県湯田に移り小林辻右衛門の工場にいた佐藤丑蔵のもとに弟子入りして木地を習った。清志14歳であった。
当時辻右衛門の木工場は山田旅館の隣にあり、足踏みろくろが三台あったという。のち発動機を一台入れ、昭和2年ごろ鈴ノ家旅館下手の川端へ移った。清志の入門当時は木工所には丑蔵だけしかいなかったが、半年後に高橋雄次郎が、一年後に高橋市太郎が弟子入りした。
昭和2年に清志の兄がいつまでこんなところで働いていても仕方がないからと、かなり強引に北海道へ連れて行った。北海道では夕張炭鉱で保坑をやり、昭和4年に帰郷、辻右衛門の工場で3ヵ月勤めたのち、同年6月、鶴岡市亀栄町に借家をして独立した。約一年間主に茶盆などを挽いた。昭和4年北海道へ渡り、三井砂川炭鉱で働き、28歳のとき当時20歳のチヤ(沢内村出身)と結婚、昭和14年に湯田へ帰り、赤石銅山、土畑銅山、湯田炭鉱などを転々とした。
昭和36年1月に湯田炭鉱が閉山したため、横浜へ出て竹中工務店の雑役をやり、その後東京日暮里の福田木工所で雑役をやった。
昭和38年1月、花巻の佐藤誠方の職人となって木地を挽いたが腕が衰えて使いものにならず、程なく湯田へもどって宇根鉱山の鉱夫となった。
昭和40年4月、落盤事故にあって死亡した。行年57歳。
丑蔵によると、湯田時代の弟子中では一番手筋がよかったというが、小柄で気が弱く、自主性に乏しい性格で、花巻では木地屋としても評価されなかった。
〔作品〕商品としてこけしを作ったことはない。昭和34年7月に、丑蔵が湯田へ行ったときに小林善作の工場へ清志を呼んで作らせたものが一本あるだけである。稚拙で怪異な表情に見えるが確かに湯田の面影を残している。
〔伝統〕肘折系文六系列
〔参考〕
- 中根巌:石川清志・小林昭三・小林信行・藤戸一栄のこけし〈木でこ・234号〉(令和3年3月28日)