石塚智(いしづかさとし:1930~)
系統:蔵王高湯系
師匠:阿部常吉
弟子:
〔人物〕 昭和5年11月10日、山形県飽海郡松山町前割下新田(現在の松山町地見興屋)の農業石塚卯吉、きんよの長男に生まれた。兄弟は男三人、女一人の四人であった。かつては地見興屋と下新田に別れていて、石塚家は江戸時代より地見興屋の出であったが、三人兄弟の次男である卯吉が下新田で分家した。卯吉は農業を主体として山仕事や河川工事等にも従事した。外交的な人で交渉事が上手な人だった。
智は運動が得意であったが、地見興屋小学校高等科1年の春放課後にとび箱をしていて左足を痛めた。脱臼という地元の病院の見立てであったが良くならず、新庄、酒田、山形市等の病院や接骨院を診察に出掛けたが良くなることは無かった。接骨医院での治療は病状をさらに悪化させてしまった。
足が悪く、昭和23年ごろ温海温泉に湯治に行ったが、当時温海温泉で足踏ロクロを使って木地を挽いていた阿部常吉を見かけた。父の卯吉はロクロの作業は足を直すのによいと考えて常吉と交渉し、智を弟子入りをさせることとした。
当時常吉一家は子供が六人(男三人女三人)いて八人暮らしの大家族で、住込みの条件として米を持参する事であった。最初は3年間の修業の約束であったが、食糧事情で1年半の修業となった。修業時代は一間半の作業場で足踏み縦轆轤を二人並んで挽いた。足袋を履いて轆轤を踏むのだが、智は左足で力加減の調整が出来ないので、すぐに擦り切れてしまい難儀したという。師匠が早起きして木取りは全部段取りしていた。修業時代はこけしと鳴り独楽、木地玩具主体で盆や茶道具は一切やらなかった。また描彩も手掛けていない。
常吉は大らかな性格で人の悪口を決して言わない人でだったので、面倒見の良かった奥さん同様に智は心から尊敬していた。昭和24年19才で足踏み轆轤、道具一式を師匠から譲り受けて地見興屋で独立した。足踏み轆轤で営業した期間は短く半年弱であった。こけしを専門に作りサーカス独楽などの木地玩具も少し作り鶴岡市の丸金商店に納めた。こけしの胴模様はあつみ菊の一種しか描いていない。尚、当時阿部常吉の作るサーカス独楽が丸金経由のイギリス向けで爆発的に売れて、独立していた智も2ヶ月近く温海温泉に滞在して応援として木地を挽いた事もあった。
木地の材料は父、卯吉が伐採作業を行い手当した。しかし昭和35年に材料不足となり木地業は廃業することになった。
丸金商店の阿部金治郎は面倒見の良い経営者で、木地業から焼き麩製造販売に転業する際も全面的にバックアップしてくれた。
昭和38年33才の時に地元の村田計子と結婚し、一男一女にをもうけた。焼き麩の他には、椎茸やキノコの栽培も行った。焼き麩の仕事は平成26年84才まで続けた。現在も大変元気で話好きで日本酒の晩酌を楽しみにしている。
なお、石塚智は「職人は実家を離れて修行しなければならないという阿部常吉の方針から、息子の進矢を半年ほど地味興屋の自分の家で預かったことがある。」と語っていた。ただし、進矢にその事を確認したところ否定していたので実際のところは不明である。
〔作品〕 阿部常吉のこけしの伝承であり、稚拙なあどけなさが魅力である。酒田の玩具店で売られていたため、蒐集家の手に渡っている作品は必ずしも多くない。
下掲の右端は、最初期の昭和24年作で足踏み轆轤によるもの、胴底に四つ爪の跡がある。当時の常吉を忠実に写した作風である。次第に目の位置が下がり顔料を使って、ニスで仕上げた時期もあり年代変化は相応にある。全ての作品に署名はしておらず、底は切り放しが殆どである。
『右より 18.8㎝(昭和24年作・四つ爪)、19.3㎝、21.3㎝(昭和20年代後半)(中根巌)〕
〔右より 30.5㎝(昭和30年年代)、18.4㎝(昭和29年頃)(中根巌)〕右端は顔料を使用
〔系統〕 独立系