加山道之助

明治中期に、こけしを集めた横浜の蒐集家。橋田素山と並んで極初期の玩具蒐集家である。 こけしも古いものを多く集めていたがその殆どを関東大震災で焼失した。焼失したこけしの中には高野幸八もあったという(佐野健吉談)。下掲の飯坂古作は、その後に親友で福島民報の記者をしていた富士崎放江が加山を慰めるために贈ったものという。大正10年頃のもので2尺の大寸(正確には2尺3寸という) 、昭和14年にさらに加山道之助から稲垣武雄に贈られた〈こけし手帖・45、53〉。このこけしは長く飯坂の栄治の店のショーウィンドウに飾られていたもので、鈴木鼓堂蔵となった2尺7寸8分と対であったともいう。

加山道之助から稲垣武雄に贈られた二尺の飯坂古作。
加山道之助から稲垣武雄に贈られた二尺の飯坂古作。
作者は佐藤栄治説、佐藤喜一説がある。

加山道之助は、明治10年(1877年)の生まれで、家業は横浜市中区真砂町の質屋。俳句や郷土玩具、開港史料収集を趣味とした。曽我部一紅らと横浜史談会を主宰し、横浜郷土史研究会の会員でもあった。雅号、俳号は可山。玩愚洞可山人とも称した。郷土玩具収集の仲間で玩具党というグループを作っていたので、玩愚洞は玩具党にちなんだ堂号だったらしい。加山の玩具収集活動の最盛期は明治34、5年であったという。また横浜の文化的な趣味を持つ人達の集まりである尚趣会の世話役的立場にもあり、その会員名簿『名かがみ』の編纂に係わって、「はしがき」の執筆もしている。
横浜の生糸商原合名会社に勤めていた斎藤昌三とは親交があった。日本のはがき流行は日露戦争の頃からで、「ハガキ文学」の紹介で、斉藤昌三と古い親友となった。また共通の趣味として俳句もあった。加山は日露戦争で右手の自由を失なっていたが、俳句の短冊などは左筆で書き、しかも達者なものであったという。斎藤昌三と趣味誌〈おいら〉(大正9年)を発刊、三田平凡寺とも親交があった。
加山は、元は中区真砂町に住んでいたが、関東大震災で焼け出され、一時鶴見に仮寓した。
震災被災後に雑誌〈いもづる〉を刊行、この〈いもづる〉仲間に淡島寒月、斎藤昌三、田中野孤禅などがいた。
昭和4年53歳の時に横浜市港北区篠原町に転居した。隠居した後で横浜市の市史編纂主任になった。また神奈川県天然記念物調査委員も務め、〈保土ヶ谷区郷土史〉の編纂顧問も委嘱された。昭和10年3月26日から5月24日まで開催された「震災からの復興記念横浜大博覧会」の会期中に行われた都新聞社主催「大横浜歴史行列」のメインプロデューサーの一人であった。
昭和19年(1944年)に68歳で亡くなった。

kayama

 横浜開港資料館〈開港のひろば〉第30号では、横浜人物小誌第22回として、横浜市史編纂主任加山道之助を取り上げている。横浜市史の編纂は、大正9年に着手されたが、震災で全てが灰燼に帰したので、堀田璋左右(明治2年生まれ。丸亀藩士堀田勝親の長男。東京帝国大学史学科を卒業した歴史学者、日本大学・国学院大学・東京大学で講師を務め、横浜市史編纂主任を務めた。吾妻鏡標註など国史に関する著作が多く。集古会の創立期の会員でもあった。昭和33年没。)の後をついだ加山によって〈横浜市史稿〉全11冊の編纂が行われ、昭和6~8年に順次刊行された。「横浜市史稿風俗編」は加山の執筆という。加山道之助の旧蔵資料は死後遺族によって横浜開港資料館に寄贈された。ここには、昭和10年復興記念横浜大博覧会や昭和12年埋立祝賀横浜開港記念祭、横浜史料調査委員会、神奈川県史蹟跡名勝天然紀念物調査委員会の関係資料、自筆原稿や新聞切り抜きなどが含まれている。
なお、加山道之助は若い時から俳人としても有名であり、子息加山達夫の編纂により『可山句抄』全402句が出版された。横浜に比較的多く新俳人が輩出したのは、毎月催された俳句の道場として加山が自宅を開放したからであって、若い頃の久米三汀(久米正雄)、泉天郎なども来ていたという。

また、芦湖山人はその〈日本近代畸人録〉で加山道之助のことを次のように記載している。
「頑愚洞可山氏 土俗玩具が全く世人の注目に価せなかつた時代に、少青年明から旅行好きな可山は一文玩具をポツリポツリ蒐めてゐた。それで号も玩具党から来たので、可山は加山の姓をとつたもの、本名道之助、明治十年五月横浜市真砂町に生れたので、横浜人は一般に「道ちゃん」で通り、親族間では同姓が多いので、単に「真砂町」と呼んでゐる。
兎に角横浜開港以来の土地ッ子で先代から質屋を営み、晩年は、殊に大震災からは廃業して悠遊してゐたが、衆目の一致する所として横浜市の市史編纂主任に祭り上げられて什舞った。半打の父として、既に孫も出来てゐるが、呑気なとうさん、如何に年は加っても、一文おもちゃを手にすれば眼尻を下げて喜んでゐる、と云へば人生を児戯に暮してゐる好爺のやうに思へるが、一面頗る日本我主義の男で、日露戦役の勇士として敵弾を正面から貫通さしてゐるし、以来右手は自由を欠いて土地の廃兵会長ともなつてゐるので、爾来万事万端左手で用を弁じてゐるが、絵を描いても短冊を染めても、真に俗を脱してゐるのは人格の表れで著名な詣である。
彼、平素の趣味性は百般に通じ、よく斯界の重鎮とされてゐるが、頗る寡黙、現存者に深切な許りでなく故人を偲ぶ情も亦生前と異ならず、多忙の裡にも毎に遺族を訪れるなど浮薄な当代には奇蹟である。
日本派の俳人として、震災前まで住宅を毎月道場に提供してゐたことも、彼の好意である、又日本アルプスが今日の盛名を成さぬ時代に、既に踏破してゐたのも、後年横浜の地に比較的多くの山岳会員を有した遠囚でもあつたらう。
可山人は実に現代趣味界の国宝である。むべなるかな、昨年十月号の趣味誌〈いもづる〉は特に彼の為に可山表彰号を同人によって発表してゐる。」

〔参考〕

  • 山口昌男:「いもづる」のいもたち〈内田魯庵山脈(下)〉岩波現代文庫
  • 芦湖山人:日本近代畸人録〈グロテスク・第2巻 第5号〉(昭和4年5月)文藝市場社

 

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