橋田素山

本名繁彦、日本橋の生まれで大正10年9月に没した。趣味に生きた人で加山道之助可山とも親しく、土俗玩具の先駆者のひとり。もともとは納札、千社札の蒐集家で、著書に納札関係の文献史〈千社万別〉がある。
斎藤昌三はこけし蒐集の草創期に触れて、「この玩具趣味を今日のように一般化さした裏面の貢献者は、清水晴風や淡島寒月翁等の蒐集から始まったが、ヒマにあかせて各地を行脚したのは、明治末期の山三不二(佐野健吉)や玩愚洞可山人、橋田素山等で、次で外神田に藤木老の専門玩具店の出現となり、三越の武田真吉氏を中心に大供会が組織され、機関紙の発行から百貨店の展観と発展したのが、漸次全国的に趣味家を抬頭させた遠因となって、今日に至ったものであろう。」と記し、橋田素山をその功労者の一人に挙げている。
大正年代に開催された三越の江戸趣味展覧会においても「納札、こけし」の出品者として名が記載されている。林若吉(若樹)とも親しく、集古会や歓無極会にも顔を出していた。

林若樹日記

素山は板祐生の才能も高く評価し、「薄給のため高価なものは集められない。人様が捨て去るものを頂くしかない」と嘆いた祐生に対していろいろ援助し、また大阪の画廊「柳屋」の主人三好米吉を裕生に紹介した。その三好米吉は祐生が亡くなるまで物心両面にわたる援助を続けたという。

橋田素山が没した時には 斎藤昌三、加山道之助が発刊していた趣味誌〈おいら〉に素山の追悼号が出ており、林若樹も一文を寄せている。また三村竹清の日記不秋堂草日暦の大正10年9月13日のところに「橋田素山君死去之はがき来る」の記載がある。
また、芦湖山人はその〈日本近代畸人録〉で橋田素山のことを次のように記載している。
「故橋田素山氏 本名は繁彦、別号に山の手町人とも称し、川柳(多作はしなかった)に祖山神と称した。日本橋に生れ、大正10年9月43で歿し、浅草の鯉寺に葬った。徹頭徹尾趣味に生きた人で、可山人と早くから交り、土俗玩具の蒐集にも先駆であったが、殊に納札大革命の急先鉾者であった。納札の全盛も素山の歿後は全く堕落して仕舞ったのは、この趣味界には頭の人物に欠くる所が多い結果であった。素山は何の方面でも先鞭はつけたが、他人が追従して来ると直ぐに休めて他に転じた。納札界の大宝塔とも称すべき文献史の大冊〈千社万別〉は、斯界のみならず学界的にも珍籍であるが、今果して何処に往ったものやら。」

〔参考〕

  • 山口昌男:「いもづる」のいもたち〈内田魯庵山脈(下)〉岩波現代文庫
  • 芦湖山人:日本近代畸人録〈グロテスク・第2巻 第5号〉(昭和4年5月)文藝市場社

 

 

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