佐野健吉

品川新宿の山三駿河屋呉服店主(実際には布団屋に近い業態であったという)。
明治30年代から大正時代にかけてこけしを蒐集、少量高値で趣味人に頒けた。趣味多く、冨士講の世話人(先達)をしたり、千社札を貼り歩いたりもしていた。人類学者のフレデリック・スタール(Frederick Starr 納札の研究で有名、「お札博士」と言われた)は佐野健吉の案内で、九十九豊勝を通訳として、千社札の蒐集をしたという。
佐野健吉は品川の家を息子にまかせて隠居した後、日本橋の西川布団店の裏(日本橋区通3丁目5番地)に住んで、客には菓子折りに並べて入れたこけしや、土俗玩具を一回に一箱づつ見せて売った。二間ほどの平屋の奥の天袋には、こうした菓子折りや菓子箱がたくさん積み重ねられていたという。
この山三の売り方に、「売り惜しみや値を吊り上げる商魂」を感じる人もいたが、これは昔の呉服店の「座売り」の形態をとったにすぎなかったのだろう。「座売り」は客が欲しい物を言うと、小僧に命じて奥の蔵から、その客が気に入りそうな物だけを持ってこさせて選ばせるという売り方である。百貨店や勧工場が出来るまでは、この売り方が商家では主流だった。昭和12、3年ころまで営業し、山三が売ったこけしには胴背に山三という焼印が押されたり、山三所蔵のレッテルが貼られたものが多かった。
加藤文成は浅之助7寸を山三から購入している。銀縁楕円型の小さい眼鏡をかけた小柄な老人で、常に角帯、前掛姿であったという。


品川山三の焼印

一時期、品川山三と焼印を捺したこけしが相当数、大阪へ移動したが、深沢要が佐野健吉から聞いた話では「東京の客が、お爺さんのこけしは安く買っているだろう、なんて言いまして、仕方なく数年前に大阪へ古いこけしを百本ほど送りました」〈こけしの微笑〉ということだった。これらのこけしは大阪の「西村庄」(このときは西村庄次郎の息子の代で、大阪市島ノ内畳屋町から生玉前に店が移っていた)へ委託として送られた。蒐集家米浪庄弌は、高野幸八二本、佐久間浅之助二本などをこの時「西村庄」で求めた。


〔右より 16.0cm(カメイ美術館)、18.2cm(明治末期)(谷川茂)(明治末期)〕米波庄弌旧蔵
ともに佐野健吉が出した「西村庄」で米浪庄弌が求めたもの

子壽里庫岸本彩星もこの時かなりの古品を「西村庄」で入手したが、それらは戦災で焼失した。その中にあった高野幸八について深沢要は佐野健吉からの聞き書きを得ている。「大正2、3年頃鳴子の鰻湯(かつての横屋、現在の吟の庄)に3日泊まったときに作らしたものである。鰻湯に行くだらだら阪の左側にあった木地屋だった。あの地方には椿がないので、苦心して一本手に入れて大きいのや小さいのをたくさん作らした。その後も行きあの寸法で五組作って、ひとつは三越の大供会へ寄付し、横浜の加山道之助さん、原宿の故橋田素山さん、その他では一対で買えないといって一本宛分けて買っていった人があったが皆震災で焼けてしまった。岸本彩星さんのところに行ったものは私の秘蔵していた一組だった。けれども、あれは鳴子の式ではなく、私の頭で作らしたものである。〈こけしの追求〉」。佐野健吉はこけしの産地まで訪ねてこけしを蒐集した人であったことがわかる。
斎藤昌三はこけし蒐集の始まりの消息に関して、この佐野健吉についても触れていた。
「この玩具趣味を今日のように一般化さした裏面の貢献者は、清水晴風や淡島寒月翁等の蒐集から始まったが、ヒマにあかせて各地を行脚したのは、明治末期の山三不二(佐野健吉)や玩愚洞可山人、橋田素山等で、次で外神田に藤木老の専門玩具店の出現となり、三越の武田真吉氏を中心に大供会が組織され、機関紙の発行から百貨店の展観と発展したのが、漸次全国的に趣味家を抬頭させた遠因となって、今日に至ったものであろう。」と記している。
佐野健吉の生年没年等については不詳である。

〔参考〕

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