小幡秀松

小幡秀松(おばたひでまつ:1911~)

系統:土湯系

師匠:

弟子:

〔人物〕 明治44年7月13日、福島県福島市置賜町の木地業小幡末松、ヨフの五男に生まれる。大正15年3月15歳で学校を卒業し、同年4月頃より父末松より木地を習った。最初の1年ほどはほとんど木取りが主で、昭和2年の初め頃から車なとの簡単なものを作るようになった。またその頃からこけしも作り始めた。父末松は昭和6年の初めまで挽いていたが、その年の昭和6年11月30日に他界した。秀松はその後も木地を挽き、こけしの描彩も行ったが昭和7年4月に記事を廃業、6月に海軍に入って横須賀に配属になったので以後はこけしを作っていない。
戦後に中屋惣舜が秀松に会い、聞き書きを採っている。
その後の消息、没年月日等不明。

〔作品〕下掲のこけしを中屋惣舜が秀松本人のところに持って行って見せたところ、「木地、面描共に自分の作で、昭和3年ごろのもの」という鑑定を得た。


〔18.2cm(昭和3年頃)(久松保夫旧蔵)〕秀松描彩


〔21.3cm(昭和4年頃)(鈴木康郎)〕 岩下祥児旧蔵 秀松描彩


〔21.2cm(昭和5年頃)(鈴木康郎)〕橘文策旧蔵 〈こけしと作者〉掲載品 秀松描彩


〔 21.8cm(昭和6年頃)(日本こけし館)〕深沢コレクション 秀松描彩

〔伝統〕土湯系

〔参考〕

  • 中屋惣舜による秀松からの聞き書き(昭和48年1月7日)〈井の頭こけし会資料)
    〈こけし辞典〉の小幡末松と福松兄弟の執筆は中屋惣舜であり、この執筆のために福島を訪問して福松の遺族に会っている。またその後も継続して小幡一家の調査を進めて、昭和48年と49年には小幡秀松から聞書をとっている。それらの調査結果は、昭和48年1月の「井の頭こけし研究会」の席上で発表、また昭和49年11月の〈木の花・3〉「小幡秀松のこけし」で整理公表された。以下は、中屋惣舜による「井の頭こけし研究会」での小幡秀松よりの聞書資料。

〇 小幡一家の木地業
明治44年4月13日小幡末松、ヨフの五男として生まれた。大正15年3月15歳で学校を卒業し、同年4月頃より父末松より木地を習った。本格的に木地を修業したというより遊びながら習ったと言った方が正確かもしれない。とにかく遊びが好きであった。しかし兄の福松が不器用のため、また秀松に絵心があったため、末松から望みをかけられ頼りにされた。後に鉋の秘伝を兄には内緒で教えてくれたりした。当時の生い立ちの家は、半分が工場、半分が店であった。店にはこけしやおもちゃ(臼、杵、独楽、犬車、駒車、三春駒)を仕入れて、それに車をつけたもの、けん玉(当時はけん玉が大流行し何千と大量に作った)、日用品(茶筒、筆立て、くけ台、糸巻き、木製の戸車など)を置いた。大正中期、後期頃の末松一家のこけしは木地は末松、福松が挽いた(ただし大正15年より昭和初年は秀松が粗挽きし、末松、福松が仕上げた )。面描は末松、福松が描いた。秀松が子供の頃(大正10年前後)、末松が顔を書いているのをよく見た。その頃は末松と福松の二人が顔を描いていたので、子供心に含まず兄貴よりよっぽど親父の方が上手だと思った。末松は秀松が描くようになると木地挽きが主となり、昭和6年の初めまで挽いていたが、その年の昭和6年11月30日に死んだ。子供が多く生活に追われ、無理に働いていたようだ。末松は酒は一滴も飲まず、また死ぬまで朝メシを食わなかった。「仕事を覚えるため朝メシを食わなかったのが習慣になったのだ」と末松はよく話をしていた。茶とタバコは好きで欠かさなかった。
〇 秀松の木地、描彩について
大正15年4月より1年ほどはほとんどが木取りが主で、昭和2年の初め頃から車なとの簡単なものを作るようになった。またその頃からこけしも作り始めた。描彩は父や兄のこけしを見て最初は見取りで覚えたが、要所は父末松から教えられた。顔はなるべく筆致を細かく描くように秀松はしているが、これは父からそう描けと言われたためである。末松もその頃のこけしとしては他のこけしと比較して細い筆致の面描であった。
秀松の面病の特色は、① 前髪が広いこと、② 鬢は上を丸くし、下へと垂らして描く、③ 綛(かせ)はほとんどがウロコだが、変わったものも描いた。②の鬢については、末松から「鬢の描き始めを丸く描き、自然に描かない」と言って叱られた。秀松の胴模様の特色は、ろくろ模様の中に蝶、梅、菖蒲、桜、 V 模様などを着物の柄として入れたこと、これも変わったことと思い秀松が始めたものであるが、末松から「決まっているものにいたずらをするな」とこれについても叱られた。
〇 秀松の妻女 
秀松の亡くなった先妻は阿部治助の妹の子であった。

  • 中屋惣舜:小幡秀松のこけし〈木の花・第三号〉(昭和49年11月)
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