小幡福松

小幡福松(おばたふくまつ:1898~1968)

系統:土湯系

師匠:小幡末松

弟子:小幡敏夫

〔人物〕明治31年12月7日、福島市置賜町31番地の小幡末松、ヨフの長男として生まれる。兄弟に二男善作、三男徳松、四男(夭折)、五男秀松、六男儀松がいるが、このうち、木地描彩に関係したものは福松、徳松、秀松の三名で、一時作者として伝えられた儀松は木地に関係はない。
明治45年ころ、15歳前後から父末松について木地を修業。引き続いて父祖伝来の木地業を継承し、こけしも作った。
大正13年9月、佐藤チヨと結婚。大正14年五男の秀松(明治44年7月13日生)が15歳で末松について木地の修業を開始した。以後昭和7年まで福松と共に木地を挽き、こけしも作った。また、二男善作と三男徳松は理髪業で身を立て、徳松は秀松が去ってから描彩者としてのみ福松に協力した。
昭和3年3月に福松、チヨの長女初子、昭和7年4月に長男敏夫が生まれた。同年6月、秀松が木地をやめて海軍へ入団し、横須賀へ移った。以後、福島では福松一人で木地を挽いた。昭和10年〈木形子談叢〉によりこけし作者として紹介された。
昭和14年佐藤静助のいた工場(当時の福島市殿田町10)に移り、動力を導入した。
このころから、妻のチヨがこけしの木取り、仕上げなどを手伝うようになった。
昭和38年ころより敏夫の妻奈津子がこけしの木地挽きや、描彩を手伝うようになった。
昭和43年2月24日没、行年69歳。
 
〔作品〕下掲は昭和10年〈木形子談叢〉で小幡福松が紹介された時の写真。ただし、おそらく描彩者は全てが福松ではなく、左から二本目の大寸は徳松の描彩であろうとされる。

〈木形子談叢〉で紹介された福松

戦前の作者は、蒐集家が作者名にこだわっているという感覚はなく、小幡福松宛てにこけしの注文が来ると、一家で製作していたものを発注者に送っていたと思われる。従って福松自身の描彩の他に、弟の秀松、徳松描彩のものがある。
中屋惣舜は〈こけし辞典〉執筆に当たって、小幡秀松に聞書きをとっているが、その後も戦前の福松名義のこけしを何本か持って秀松を訪ね、その結果をもとに戦前の小幡家のこけし製作状況を、井の頭こけし研究会(昭和47年1月)、〈木の花・3〉で発表した。下図は、中屋報告による描彩者の鑑別点である。

描彩者の鑑別点〈木の花・3〉

各時期で製作関与者は変わっているが、主な時系列の流れは下図のようになると思われる。その変遷の経緯は下記のような状況によるものであろう。
末松生存中から福松、徳松、秀松は木地を挽いて描彩もしたというが、主な描彩は昭和初年まで末松が行った。その後、福松が描彩が苦手であまり描かず、比較的達者であった秀松が主に描彩を行った。しかし、昭和7年6月に秀松は海軍に入団し横須賀に移った。
小幡家では描き手がいなくなったのでやむなく福松が描彩するようになった。しかし、福松は描彩が得意ではなかったので見かねた徳松が昭和10年頃より描彩のみ手伝うようになった。

各年代の小幡一家の製作者

下掲の四枚の図は、福松名義であるが秀松が描彩したこけし。昭和7年の秀松入団までの福松名義は秀松描彩が多い。


〔18.2cm(昭和3年頃)(久松保夫旧蔵)〕福松名義、木地、描彩ともに秀松


〔21.3cm(昭和4年頃)(鈴木康郎)〕 岩下祥児旧蔵 秀松描彩


〔21.2cm(昭和5年頃)(鈴木康郎)〕橘文策旧蔵 〈こけしと作者〉掲載品 秀松描彩


〔 21.8cm(昭和6年頃)(日本こけし館)〕深沢コレクション 秀松描彩

下掲の二枚の図は、福松名義で福松本人が描彩したこけし。筆は立つ方ではなく稚拙ともいえるが、古風な情味は一番ある。今日であれば最も評価される作品かも知れない。


13.0cm(昭和8年頃)(高橋五郎)〕福松描彩


〔右より 13.0cm、6.5cm(昭和8年秋)(鈴木康郎)〕 橘文策旧蔵 福松描彩

下掲は昭和10年頃から稚拙な福松の面描を見かねて弟の徳松が描彩を引き受けるようになった時期の作。


〔 12.7cm(昭和12年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション 徳松描彩

下掲は中屋惣舜が作成した作品分析表


中屋惣舜作成の作品分析表
井の頭こけし研究会(昭和47年1月)配布
ここでは〈木形子談叢〉の4本をすべて徳松描彩としているが、大1本のみ徳松で、左右の3本は福松描彩と思われる。

〔伝統〕土湯系松屋系列
長男の小幡敏夫は技術を継承した。

〔参考〕

  • 中屋惣舜:小幡秀松のこけし〈木の花・第3号〉(昭和49年11月)
[`evernote` not found]