小松留三郎(こまつとめさぶろう:1888~1913)
系統:鳴子系
師匠:高橋万五郎
弟子:遊佐養右衛門/藤井梅吉
〔人物〕 明治21年9月25日、山形県北村山郡尾花沢の小松徳五郎・ユラの四男として生まる。戸籍名を留四郎、通称を留三郎という。父徳五郎は小松茂兵衛二男であったが、明治23年に分家し、一家は鳴子へ移った。徳五郎は酒屋を始めたがまもなく失敗した。留三郎は高橋万五郎について木地修業、木地は初代である。独立後、甚三郎の家の隣で木地業を開業、岡崎仁三郎・柴崎丑次郎が一緒に働いた。明治40年20歳で岩手県鉛へ行き、藤友旅館で職人をした。鉛にどのくらい滞在したか不明であるが、まもなく鳴子へ帰り、もとの家で木地業をつづけた。明治43年23歳のとき、大水害にあって被災し、鳴子を雛れて山形県上ノ山に移り木地工場を作った。このとき、職人として桜井万之丞・秋山慶一郎・高橋武蔵などが小松の工場で働いている。大正2年9月28日上ノ山町鶴胚町にて没す。享年26歳。小松五平は妹アサの婿で留三郎の義弟。留三郎の弟子には、鳴子時代の遊佐養右衛門、鉛時代の藤井梅吉がいる。
〔作品〕 〈こけし手帖・11〉に木村吉太郎の確認による名和蔵の小松留三郎が載っている。昭和31年の東京こけし友の会例会に参加した吉太郎が、これを留三郎と判定したという。肩のない直胴でロクロ模様が描かれており、作並系に近い。 〈こけし手帖・11〉の写真では胴の向きによるのか花模様のようなものも見える。このこけしが留三郎であるかどうか、疑問は多い。
また鈴木鼓堂収集にも留三郎らしきものがある。一重瞼で、花を三つ重ね描き、上に一本カンナ溝がある。丸い三つの花(牡丹か)は小松五平も描く。伊藤松三郎は、同様の三つ重ねの牡丹模様は高橋金太郎が描いていたと言っていた。胴底には「山形尾花沢」との書入れがある。
〔 18.3cm(明末正初)(鈴木鼓堂旧蔵)〕
高橋武蔵の証言によると、留三郎はこ けし作りに長じ、頭部に髷を描いたこけしを作ったという。仕事がきれいであったことは定評がある。
留三郎と確実に判定できる作品はないが、寅蔵や五平への影響力のあった工人であり、金太郎系列の重要な工人であったと思われる。
〔系統〕 鳴子系金太郎系列
〔参考〕