土谷幸作

土谷幸作(つちやこうさく:1926~2012)

系統:鳴子系

師匠:大沼信兵衛

弟子:海老名一郎/山口収一

〔人物〕 大正15年12月15日、山形県村山市楯岡の畳製造業土谷周蔵の長男に生まれる。終戦後海軍より復員後、仕事がなく、土工など種々の仕事を行なっていたが、やがて村山市楯岡の県指定授産木工所に勤めることになった。昭和23年頃、この授産木工所に木工技術の指導に来たのが鳴子の大沼新兵衛で、土谷幸作はこの新兵衛について木地の修業を行うことになった。挽いたものは主に、盆や茶托など実用的な器物であった。この授産木工所では新兵衛の他に天野正右衛門や佐藤養作も指導を手伝っていた。
数ヶ月づつ二回の講習のあと、鳴子に戻る新兵衛は授産木工所の弟子の中から、幸作一人を呼んで、こけしの作り方を教えたという。
新兵衛が去った後も幸作は木工所に引き続き勤めたが、当時住んでいた借家の縁側の片隅に足踏みロクロを据えて余暇を見つけては木地の技術や、こけし作りを練習したという。
鳴子にも何回か出かけて、新兵衛から指導を受けることもあった。
その後、朝鮮戦争の頃、海軍主計兵だった経験から警察予備隊の募集に応じて入隊、訓練兵器の実習も終わって自宅に休暇で帰ったとき、先輩から山形相互銀行を勧められ、警察予備隊を除隊して銀行に入行することになった。銀行には20年ほど勤めることになった。昭和32年師匠の新兵衛が亡くなってから、こけしのことが心中を去来するようになり、昭和48年頃から少しづつこけしを作る様になった。昭和53年8月10日付けの東京新聞に「銀行マン伝統を継ぐ」と題した紹介記事が掲載された。この時は山形相互銀行楯岡支店推進役であった。昭和55年銀行を定年退職してからは、楯岡の東沢公園内の工房で本格的にこけし製作に取り組む様になった。このころ東根の山口収一が弟子となってこけしを造り始めた。また楯岡の海老名一郎が平成3年より幸作について木地の修業をはじめ、平成8年からこけしの製作を始めた。
平成24年2月8日没、行年87歳。

土谷幸作

〔作品〕 授産木工所の弟子の中から幸作を選んでこけしつくりを伝授してくれた新兵衛への敬意は非常に篤く、新兵衛の型を忠実に継承する事に努めた。  


〔25.3cm(平成8年)(高井佐寿)〕

〔伝統〕 鳴子系岩太郎系列

〔参考〕

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