佐久間粂松

佐久間粂松(さくまくめまつ:1875~1945)

系統:土湯系

師匠:佐久間浅之助

弟子:佐久間太市

〔人物〕  明治8年3月7 日、土場温泉下ノ町28 (現在の新店)の木地業湊屋佐久間浅之助・ノエの次男に生まれる。母ノエは熊捕り名人の鉄砲師二瓶儀助の二女で、寺子屋の優等を見込まれて浅之助に嫁いだ。
戸籍表記は久米松。土湯を離れるまではこの表記を用いていたという。3歳年長の長兄由吉より木地を習う。由吉は明治18年膽澤為次郎について足踏みロクロの技法を習得していた。明治33年、26歳で渡辺コト(会津屋渡邉猪之吉四女、太治郎の後妻シオの姉) と結婚、12月長男太市出生。
明治36年の大水害により、実家の湊屋は壊滅的な打撃を受けたので、粂松は家族を連れて相馬郡小高町に移住、約1年ほどいた後、明治37年30歳の時に川俣に移った。当時、川俣は絹織物が盛んで、絹織機に使う木管を主に製造した。
大正15年52歳のとき、向かいの川俣町字日和田5に転居した。
昭和10年ころより思い出にとこけしを作り、近所に配った。昭和15年3月深沢要により作者として発見され、昭和18年ころまで製作した。おそらく深沢は昭和12年に由吉を福島に訪ねた際に、川俣の佐久間兄弟のことを聞いていたのであろう。昭和15年の川俣訪問は〈こけしの追求〉の「作者小記」に書かれている。
昭和19年妻コトが亡くなった。妻を亡くしてからは精神的にかなり弱ったようで、義弟斎藤太治郎を土湯に見舞ったり、娘ナツを仙台に尋ねた折、道に迷って放浪し、ようやく連れ戻されたというような話が残っている〈こけし手帖・30〉。昭和20年11月20日老衰で死亡、71歳。太市とナツの二子あり、太市には九人の子女があって、家業は六男伝六がついでいる。
性は厚順、また恥ずかしがりやでもあって、客が来ると隠れてしまうといったところもあった。一方で仕事は極めて迅速、描彩の筆致は踊るように早く、馬鹿丁寧なほど遅筆な斎藤太治郎とは好対照だったと鹿間時夫は語っていた。

佐久間粂松 撮影:水谷泰永

佐久間粂松 撮影:水谷泰永

〔作品〕  佐久間粂松は、昭和10年ころに思い出にこけしを作ったというが、その頃のこけしは残っていない。
昭和15年に復活する以前の作、たとえば明治期、大正期の作品は確定されていない。しかし、伝佐久間浅之助の作品が粂松作と言われていた時期があった。
また、〈こけし雑俎別冊〉に掲載された帽子をかぶった作り付け2本(加藤文成旧蔵)も、粂松の古作ではないかという説もある。加藤文成はこの二本を鯖湖で求めたようである。下掲の特に右のものなどは、目や鼻の描法は粂松に近く、粂松説は有力と思われる。

作者不明(粂松説が有力)〔右より 11.2cm、12.3cm(大正期)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション
作者不明(粂松説が有力) 、〈こけし雑俎別冊〉に掲載
〔右より 11.2cm、12.3cm(大正期)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション

いま、粂松作であることが確実なこけしは全て昭和15年から昭和18年にかけてのものである。
昭和15年3月に復活初作を手に入れた深沢要のこけしが、最初のものである。深沢要はかなりの数をこの時入手したようで、深沢コレクション目録には5本、また同じ昭和15年3月のものが米浪庄弌のコレクション中にもある。このときの深沢要の東北訪問は、三重富田の伊藤蝠堂主催「おもちゃ祭」で頒布するこけしの調達が目的であったから、伊藤蝠堂蔵の地蔵型、名古屋四光会発行の〈こけし〉に写真掲載されている粂松も深沢経由のものであろう。

〔右より 20.6cm、17.6cm(昭和15年3月)(深沢コレクション)〕
〔右より 20.6cm、17.6cm(昭和15年3月)(深沢コレクション)〕
鳴子 日本こけし館収蔵

〔13.7cm(昭和15年3月)(河野武寛)〕 米浪庄弌旧蔵
〔13.7cm(昭和15年3月)(河野武寛)〕 米浪庄弌旧蔵

〔19.5cm(昭和15年5月28日)(河野武寛)〕
〔19.5cm(昭和15年5月28日)(河野武寛)〕

〔右より 18.7cm、15.7cm(昭和15年)(北村育夫)〕
〔右より 18.7cm、15.7cm(昭和15年)(北村育夫)〕

この北村育夫蔵品くらいまでは確実に昭和15年の作と思われる。
目は細く小さい。また、前髪も小ぶりに描かれるものが多い。

らっここれくしょん (昭和15~16年頃)
らっここれくしょん (昭和15~16年頃)

らっここれくしょんには目録があるが、その目録の最終は昭和14年8月で以下未完になっている。従って年代ははっきり確定できない。粂松は目録に載っていない。
らっここれくしょん、石井眞之助旧蔵、鈴木鼓堂旧蔵は、一応昭和15年作となっているが、ここでは昭和15~16年作としておく。目の描線は太くなり、粂松としては描き慣れてきた筆致になっている。前髪も大振りになって、左右に分かれる描き方のものも現れる。

〔29.3cm(昭和16年)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵
〔29.3cm(昭和15~16年)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵

石井旧蔵の粂松は、頭部が縦長で面描も異色、一見虎吉を思わせるような表情である。

〔右より 25.6cm(昭和16年)(石井政喜)、35.4cm(昭和16年)(北村育夫)〕
〔右より 25.6cm(昭和15~16年)(石井政喜)、35.4cm(昭和15~16年)(北村育夫)〕

〔25.0cm(昭和16年)(鈴木康郎)〕
〔25.0cm(昭和16年)(鈴木康郎)〕

上掲は昭和16年作、頭がやや角ばりひょうきんな表情になる。鼻の描線の下端を膨らませるように止めているので、鼻孔を描いているように見える。

〔18.3cm(昭和17年)(北村育夫)〕
〔18.3cm(昭和17年)(北村育夫)〕

昭和17年を鹿間時夫は油が乗り切った時期といった。うりざね顔に役者絵のような表情を描くもの、優艶な微笑をたたえた浮世絵風の表情のものと、千変万化、自由闊達で魅力がある。また〈こけしの美〉の原色版に載った玉山勇蔵のような怪異な作もある。〈こけし鑑賞〉に載った鹿間時夫蔵の尺は昭和18年1月作で、筆勢やさしく、愁いを帯びたような表情であった。
鹿間時夫は、昭和17年粂松にこけし絵を依頼したところ、「説明を終わりもしないうち早のみ込みで描いた電光石火のような筆勢の早いこと鋭いことに舌を巻いた」と書いている。
粂松のこけしの面描は、いつも電光石火の勢いで描かれるので、そのときの粂松の感情がそのまま写されるのかもしれない。やさしい表情もあり、憂いの表情もあり、また怪異でにらむ表情もある。

系統〕  土湯系湊屋系列

〔参考〕

  • 〈こけし手帖・30〉 名品こけしとその工人 佐久間粂松 (鹿間時夫)
  • 〈こけし手帖・607〉 談話会覚書(7) 佐久間粂松のこけし (鈴木康郎)
  • 川俣 佐久間粂松
  • Shuguan Kokeshi Collect 佐久間粂松
  •  深沢要葉書
    残雪の東北線から奥羽線に入るといやはやものすごい雪です。今度の旅で新人を一人見付け出すことが出来てよろこんでゐます。責任旅行で案じつつ歩いて居ります。 三月四日                      米澤にて  深澤要
    「残雪の東北線から奥羽線に入るといやはやものすごい雪です。今度の旅で新人を一人見付け出すことが出来てよろこんでゐます。責任旅行で案じつつ歩いて居ります。
    三月四日                      米澤にて  深澤要」
    上掲の昭和15年3月4日発信の深沢要から石井眞之助に宛てた葉書で発見した新人というのが佐久間粂松であった(後に3月12日に出した封書の方では粂松の名を出している)。責任旅行というのは三重県富田の玩具蒐集家伊藤蝠堂が5月に開催する「おもちゃ祭」で頒布するこけしの調達を頼まれていたことを言っている。
[`evernote` not found]