佐々木要吉(ささきようきち:1878~1914)
系統:南部系
師匠:佐々木与市/佐々木角次郎
弟子:
〔人物〕 明治11年11月3日、岩手県志戸平佐々木与市・スワの4男に生まる。父与市・長兄角次郎について木地を修業した。明治37年稗貫郡湯口村大字上根子の伊藤文次郎長女ミ子と結婚、婿養子となって湯口村大沢温泉 (現在、花巻市)に別家した。大沢でも木地業を続け、こけし・玩具等を大量に作ったといわれる。要吉はなんでも工夫して作りだすという性格で、当時流行したマントを写したマント型なども創作した。大正2年4月3日没、行年37歳。なお、要吉の妻は、昭和36年ころまで生きており、97歳で没したという。
〔作品〕 確実に要吉作と判明しているものはない。覚平は〈こけし這子の話〉図版の二本の鉛こけしを見て、「要吉作と思う。父が話していたこけしのとおりだ。」と語った。 〈こけし這子の話〉の鉛こけしは、〈こけし教室便り・一〉により藤井梅吉古作でないことは確認されている。
佐々木一家の製作になる可能性が極めて強い。蛇ノ目・面描などの手法は佐々木家のものと共通点が指摘できる。
また天江富弥は、鉛訪問の記事に「その当時(昭和2年頃)、崖上の売店へ山の木地屋が持って来た墨一色の首のフラフラするこけしは現在筆者及び仙台小芥子会員の数人が所蔵するのみの珍品であるが、作者名を逸したのはなんとしても残念である。後年藤井が作ったこけしは僅かにその面影を伝えている。〈東北温泉風土記〉」と書いている。このこけしは、天江富弥が当時休業中の鉛を探し回って崖上の売店でようやく見つけたもの、西田峯吉が天江富弥に確認したところ、「豊沢から運ばれたもの」と答えたそうだが、要吉とすれば大沢からの記憶違いだったかもしれない。同種のこけしはらっここれくしょんにもある、面描はこちらの方がやや古風で、きなきなにしては珍しく凄味がある。これらのこけしが要吉作とすれば、彼の死亡年から考えて明治末期の作であろう。
〔右より 15.2cm、14.8cm(明治末期)(高橋五郎)〕 天江富弥旧蔵
〈こけし這子の話〉掲載の鉛こけし
〈こけし這子の話〉の鉛こけしについては、小島正模作が東京の吾八より売られたことがある。〈こけし辞典〉ではこの小島正模作を、要吉の項目の図版で紹介している。マント型のこけしも古い収集家のコレクションに散見されるが、これは要吉作というより要吉に影響され、与始郎が作ったものであろう。
〔伝統〕 南部系。他の産地からの影響を受ける前の南部系の祖型として重要である。