佐藤味蔵(さとうみぞう:1893~1926)
系統:弥治郎系
師匠:佐藤幸太
弟子:佐藤春二
〔人物〕 明治26年8月8日、宮城県刈田郡八宮(弥治郎)の佐勝幸太、すくの三男に生まれた。今三郎、慶治の弟で、春二の兄にあたる。末弟の春二には味蔵が主に木地の指導を行ったという。大正7年26歳のとき、山形県の白布高湯(現在米沢市白布温泉)に移り木地を挽いた。その後シベリアに出征し、帰還して弥治郎に戻ったが、大正8、9年ころに浅虫の島津勝治の工場へ行って働いた。同工場では弥治郎から佐藤慶治(大正4~5年)、小倉茂松(大正6年ころ)なども行っていたので、その縁であったと思われる。やがて白布高湯へ戻り、木地業を続けたが大正15年8月30日、白布高湯で没した。行年34歳。
〔作品〕昭和3年刊行の〈こけし這子の話〉の白布高湯の項に佐藤慶治の説明として「10年ほど前、弥治郎より移り住んだ人」とあるが、これは慶治でなく味蔵のことの誤認である。
味蔵の木地技術は非常に優秀であったと伝えられている。また、新しいものの工夫や考案にも優れた腕とセンスをもっていたようで、実弟の春二が味蔵に師事し傾倒していたことはよく知られている。
これまで味蔵のこけしは未確認であったが、昭和41年味蔵の甥にあたる白布温泉の新山慶美が、同地の東屋旅館の一部改築の際、縁の下から発見したこけしが味蔵であるとされている。
描彩がわからぬほど保存状態は悪くなっているが、頭の形と胴の下端の紫帯等は確認でき、これを手にした春二の口からは「味蔵あんさんのこけしだ」という言葉が迷いなく出たという。材は白布近山にあるミネバリあるいはオンノレカバ。〈こけし手帖・83〉には白黒の写真と発見の経緯が大石真人によって報告されていた。慶治のこけしとは明らかに違い、また白布高湯の旅館から発見されたことも考慮すれば佐藤味蔵作とすることに異議を立てる根拠はあまり無かろう。
このこけしは昭和53年に神奈川県立博物館で開催された「こけし古名品展」に出陳された。
慶治、息子の慶美が亡くなり、孫の純一が米沢に移ってから白布高湯の家は廃屋同然になっていて、雪による損傷も進んでいたが、倒壊の寸前に村野斗史雄が純一の許可を得て捜索し、味蔵作を救出できた。下掲がその味蔵作の写真である。
〔 33.0cm(大正中期)(渡辺純)〕村野斗史雄により救出された
頭部側面は頭頂巻き絵(ベレー)周りに髪が描かれ、その髪は後部に行くにつれてやや長くなって行く。
彩色は薄れて確認難しく、面描も描線が消えた後に素人が墨を加えた後もあって原形を推測するのは難しいが、襟状の首受けをもった姿は美しく、大正期の作風を心眼で追い求める機会を与えてくれる。貴重な遺品である。
東屋旅館の縁の下から、そして雪でほぼ倒壊状態の慶美の家からと、二回にわたって奇跡の救出が行われた数奇の運命のこけしでもある。
右手二階が残存部、手前が倒壊部で、倒壊は手前駐車場側に起きていたという。残存部と倒壊部の境目のあたりから佐藤味蔵の古作は村野斗史雄の手によって救出された。
〔伝統〕弥治郎系幸太系列
〔参考〕
- 大石真人:白布の一夜〈こけし手帖・83〉(昭和43年2月)