佐藤茂吉(さとうもきち:1860~1943)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤友吉
弟子:佐藤円吉/佐藤孝之助/佐藤幸太/鈴木三吉/阿部常松/加野久吉/佐藤佐吉
〔人物〕 万延元年11月23日、佐藤友吉次男として宮城県刈田郡宮村(遠刈田新地)に生まれた。明治2年、10歳で佐藤源兵衛の寺子屋で読み書き算盤を習った。明治5年、13歳より家業を手伝い、木取りや手斧を練習、明治8年ころから二人挽きロクロに入った。明治10年ころは弟吉五郎に綱取りをさせて、一日に四寸こけしを百本も挽けるようになり、これに父の友吉が描彩をしていた。〈蔵王東のきぼこ〉によると、この二人挽き時代に、こけし・独楽・おしゃぶり・うす・やみよ等の玩具を作ったのは、茂吉と松之進の家だけであった。
茂吉が父友吉について、兄茂七や弟吉五郎等と玩具を挽いたのは、明治12年ころまでで、以後は盆、鉢、茶入等を専門に作った。明治17年、叔父文吉の養子となり、明治18年文吉の長男文治を六ヵ月間弟子とした。
明治18年1月に田代寅之助が遠刈田に来て一人挽ロクロを伝えた時には、周治郎、久吉、七蔵、吉五郎、寅治、重松と共に田代に弟子入りし、一人挽を習得した。同年7月、青根の丹野倉治が田代を青根に招聘したため、久吉、重松と共に田代について青根に行った。新たに作並から来ていた槻田与左衛門、青根の菊地勝三郎、弥治郎の佐勝幸太が田代に弟子入りした。翌19年6月、田代は借金がかさみ夜逃げしたため、これらの弟子たちで丹野の工場を続け、幸太は改めて茂吉の弟子となった。
〈蔵王東のきぼこ〉によると、茂吉の青根時代の弟子には幸太のほかに、明治21年ころから、宮城県音沢村出身の鈴木三吉、福島県土湯出身の佐久間常治(阿部常松)がいたという。現在遠刈田の作者が伝統的な古い模様として描いているものは、このとき、以前の模様を基礎として工夫考案したものである。また箱根、日光等の玩具を取り寄せては、自分なりに研究し作ったものが百種類以上あったという。
こうした新技術による新しい製品を数多く学び、明治20年代後半に新地へ帰り、木地挽を続けた。明治28年4月1日から7月31日まで京都の岡崎公園で開催された第4回内国勧業博覧会に茂吉は切立を出品している。切立とは、曲面のフォルムだけで作られる容器ではなく、底の部分と側面とに角度を持たせ、側面を立たせたような形状の盆、椀、茶器などを言う。
出品地が刈田郡宮村となっているから明治28年には青根から遠刈田新地に戻っていたであろう。
第4回内国勧業博覧会出品目録 (明治28年 京都の岡崎公園)弥治郎、遠刈田からの出品
明治30年加野久吉を弟子とし、同34年には長男円吉も入門した。このころは盆類の製作に全力を尽くし、次第に玩具は作らなくなった。
明治42年、松之進、吉郎平等、吉郎平系列工人の多くと共に小室万四郎の職人となった。大正5年、白石生まれの佐藤佐吉を弟子とした。同6年県当局による小室の木地講習会が開催された折にはその教師となり、若干の弟子を養成したが、弟子の中で後年まで木地を続けたのは、佐藤佐吉ぐらいであった。
大正7年59歳のころには老眼が進んだためロクロに入るのをやめて、以後長男円吉の木取等を手伝っていた。
大正11年より白石営林署の苗圃定夫として勤務、昭和11年77歳で隠居し、悠々自適の生活を送る様になった。昭和14年ころに、収集家の懇望により、円吉の木地に思い出の筆を取ったものが若干残っている。
昭和18年8月6日没、行年86歳。
〔作品〕 こけしを製作したと考えられる時期を区分すると次のようになる。
- 第一期・遠刈田時代(明治8年ー明治12年)二人挽きによって玩具、こけしを盛んに挽いた。
- 第二期・青根時代(明治18年ー明治29年)田代寅之助から伝えられた一人挽きで遠刈田や青根の丹野の工場で土産の玩具、こけしを盛んに作った。
- 第三期・遠刈田時代(明治29年ー大正7年)自家や小室の工場で木地を挽いた。
- 第四期・遠刈田時代(昭和14年一昭和15年)昔を思い出して、円吉の木地に描彩した。
ただし第二期、三期は盆類などの製作が主体だったという。
こうしたこけし製作期間の中で、はっきり茂吉の手になる作品が確認されているのは第四期の復活作のみである。 これらは円吉の木地に描彩のみを行ったものである。
下掲作品には〈蔵王東のきぼこ〉に掲載された木版摺りの描彩図に描かれたものと同じ花模様が描かれ、また胴下部には籬(まがき)が描かれている。この籬は、槻田与左衛門が作並から伝えた菊籬模様の名残と思われる。この作並式の菊模様が遠刈田の桜崩しの原型となった。このように茂吉が昭和14年復活当初に描いた模様には、明治20年頃に各地の工人が青根に集り、各地の古い模様をもとに影響しあって種々工夫していた名残の様式が残されていて非常に興味深いものだった。
〔27.6cm(昭和14年10月)(鈴木康郎)〕米浪庄弌旧蔵
下掲左端も昭和14年、上掲鈴木蔵と同趣の面描、胴の花模様も同じ桜崩しである。この時期の茂吉の描彩には、茂吉が筆を止めた大正7年以前の古い様式が再現されており、明治中期、末期の遠刈田こけしの面影を偲ぶ上で重要である。
〔右より 12.0m(昭和15年)(石井政喜)、15.5cm(昭和15年)、18.3cm(昭和14年11月)(田村弘一)〕
昭和に入ると遠刈田の頭部描彩は手絡が主流になるが、下掲写真の作品ではオカッパの黒頭を描き、またロクロ線を加えた胴に襟を描いて古風である。昭和15年になると、胴模様は重ね菊を主に描くようになる。
〔 25.1cm(昭和14年)(西田記念館)〕八十才の記入がある
〔伝統〕遠刈田系吉郎平系列 佐藤円吉が茂吉の伝統を継承した。また弥治郎の佐藤幸太が茂吉の弟子であったことから、幸太の後継者である佐藤春二、井上はる美、新山純一、新山敏美などが茂吉型と呼ぶ作品を作った。
〔参考〕
- 伝佐藤茂吉について
茂吉の作品は第四期の円吉木地に描彩のみを行ったものしか確認されていないが、大正7年に製作をやめる前の第三期の作ではないかといわれるものがある。下掲写真がそのこけしで、これが出てきたのは明治期に主に集めた古いコレクターからだという。一見茂吉の長男円吉のこけしに近いが、昭和期の円吉と比較しても筆が走っていないので、製作年代が明治末期であるならば老眼が出始めていた茂吉作の可能性があるという。一方で茂吉の面描において鼻は目の位置より低いところから描き下ろされるのに対し、このこけしは目の上から描き下ろされているので、このこけしは茂吉でなく円吉古作だという見解もある。
〔参考〕
- 山本陽子:内国勧業博覧会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・4〉(令和2年10月)
- 菅野新一:〈蔵王東のきぼこ〉:昭和17年8月(白石郷土研究所) 昭和45年2月未来社より再刊