佐藤吉雄

佐藤吉雄(さとうよしお:1909~1960)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤三蔵

弟子:

〔人物〕明治42年12月20日、宮城県栗原郡島矢崎村字中野田町前に、菅原東治、みよしの三男として生まれた。菅原庄七は実兄で、東治、みよしの二男にあたる。
昭和5年ころから秋保の佐藤三蔵について木地の修業を始めた。秋保の佐藤三蔵の妻のよしのは、母みよしの妹であった。その縁から、昭和7年に吉雄は三蔵の養子となった。佐藤武雄は義弟に当たる。
こけしは当時三蔵の所で働いていた兄の菅原庄七から学んだ。三蔵はこのころすでにこけしを作らず、雑器類を主に挽いていた。兄弟子として、菅原庄七、山尾武治、塩野惟信、山尾春吉、毛利政治等がいた。
橘文策が発行していた〈木形子異報〉や〈木形子〉でこけし作者として紹介された。昭和14年ころから本格的にこけしを作るようになり、第1次こけしブームの昭和15年ころには庄七と共に、秋保の代表的作者であった。
戦後も農業のかたわら、少しずつ作っていたが、昭和34年、屋根から落ちて入院し、昭和35年8月16日に没した、行年52歳。

 佐藤吉雄 昭和35年8月 撮影:大浦泰英
佐藤吉雄 昭和35年8月 撮影:大浦泰英

〔作品〕下掲の二本は深沢コレクション中にある秋保古作である。昭和32年に東京こけし友の会が〈こけし手帖・14.15合併号〉で深沢要を取り上げる際に、土橋慶三と小野洸を鳴子に派遣して〈深沢コレクション目録〉の作成を行った。その目録の中では「伝・太田庄吉」として整理されている。しかし、明治43年に36歳で亡くなった太田庄吉作とするのには無理があり、〈こけし辞典〉では下掲の二本を佐藤吉雄の項目に写真掲載し、昭和5年頃の吉雄のごく初期の作とした。
三蔵は大正中期から、深沢要に依頼されてこけしを作って見せる昭和15年まで、ほとんどこけしは作っていなかったから、この期間は庄七、吉雄が秋保の中心作者であったろう。 下掲二本を吉雄作とすることには一応の説得力はあるが、確定したわけではない。


〔右より 24.4cm、18.2cm(昭和5年頃)(日本こけし館)〕推定:吉雄作 深沢コレクション

確実に吉雄の作とわかる作品は、昭和14、5年からのもので、主に庄七よりの伝承てあり、義父三蔵からの伝承は少ない。
昭和14、15年にはかなり多くの作品を作って収集家の手に渡った。〈古計志加々美〉で紹介されたように胴の真中に梅を描いたり、頭を緑に塗ったりしたものもある。作風はおとなしいが一体に甘美で情味あるものが多く、ほんのり淡い頬紅と切れ長の瞼が印象的である。


〔24.3cm(昭和14年頃)(国府田恵一)〕


〔24.8cm(昭和15年)(西田記念館)〕


〔21.0cm(昭和22年)(ひやね)〕

また戦後を通じて、三蔵名儀のこけしには吉雄の代作が多い。〈木形子叢〉や〈こけしと作者)に三蔵として紹介されたのは吉雄の代作で、戦後の美術出版社版〈こけし〉の三蔵名儀のものも、戦後の吉雄の代作であった。


美術出版社版〈こけし〉に佐藤三蔵として紹介された吉雄作

戦後昭和20年代の作はやや甘美さがうすれ、寂しい感じが強くなったが、晩年は繊細で美しいものを作った。


〔18.0cm(昭和30年頃)(高井佐寿)〕

系統〕遠刈田系秋保亜系

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