鈴木清

鈴木清(すずききよし:1897~1980)

系統:作並系

師匠:海谷吉右衛門/佐藤巳之助

弟子:鈴木昭二

〔人物〕明治30年4月20日、山形県高畠町字川沼の農業鈴木清吉、かねの三男に生まれた。屋代尋常高等小学校卒業、東京の成城中学校中途退学した後、大平洋画塾にてデッサンを学び、さらに中島醴泉画伯につき日本画を学んだ。
一時米沢市にて木彫人形(モンペ人形)を作った。昭和2年には妻峰子との間に長男昭二が生まれた。
昭和12年ころに仙台に移り、取引関係のあった日下コウが仙台市日の出丁で経営していた桜井玩具店を継承した。昭和13年より20年7月の仙台空襲による戦災まで、桜井玩具店はもっぱら郷玩店こけし専門店として仙台その他の地方のこけし工人を広く紹介して頒布した。
また鹿間時夫、立川武雄等と共同で仙台きぼこ会を結成、雑誌〈きぼこ〉を三号まで刊行した。
高橋武蔵の木地等に胞吉型や本人型の描彩をしていたが、昭和15年より海谷吉右衛門と佐藤巳之助について木地挽を学び、自挽きのこけしを作るようになった。
戦災により松島に疎開、2年後仙台市駅前の仙台銀座にてこけし店開業、新型こけしを盛んに作った。昭和22年ころには東京銀座の小物店すみやを介して帝国ホテル売店に出品、大量の注文を引き受けた。
昭和24年に国分町1-6-3(日の出丁)の本店に移り、玩愚庵と称し、こけし専門店として知られるようになった。
昭和26年ころまで自挽で胞吉型を作っていたが、以後は息子昭二の木地や佐藤富士海の木地に描くようになった。同時に新型も少量作っていた。
仙台民芸品協会会長を務めたこともあり、その時の副会長は我妻吉助と村上玉次郎であった。
玩愚庵には東一番丁の藤崎のれん街にも支店があった。まれにみる器用人で仙台市泉区天神沢に陶器の窯を作って泉焼と称し、茶陶を焼いて茶道を楽しんでいた。
昭和55年12月6日没、行年84歳。


前列 屈脚位左より 新山福太郎、本田鶴松、八代鉄園
中段 立位左より3人目 鎌田文市 右より2人目 佐藤文助 右端 鈴木清
後列上段 屈脚位右より4人目 本田亀寿 3人目 三原良吉 右端 菅野新一 
撮影:昭和24年9月 於:小原温泉


鈴木清

〔作品〕昭和13年ころ武蔵木地に描いた本人型は、胞吉標準型のような形態で、肩が張り、据がつぼまった胴に花模様を描いていた。


〔右より 30.0cm(昭和13年)、18.5cm(昭和15年)(小野洸旧蔵)〕ともに高橋武蔵木地

西田峯吉も昭和13年9月に桜井玩具店を訪ねて、玩具店主人としての鈴木清に会っている。そして下掲写真中央の胞吉型を購入した。西田峯吉は鈴木清のこけしについて「この胞吉模作は商品として相当数売ったようだから、鈴木さんは工人という一面を持っていた。彼の場合は感覚によって写したのだから、いわゆる模写ではない。したがって一般に言う写しや復元ではなかった。それにもかかわらず、後年の復元と言う名で呼ばれる模作の先駆者と言ってもよいのではないかと思う」と書いている。この意味は、復元と言う概念がいまだない時代に鈴木清が試みたのは、特定の原型を見ながら写すというやり方ではなく、胞吉の感覚を思い描き、胞吉になったつもりでこけしを作るというやり方だったということだろう。にもかかわず鈴木清の成功が、後年の復元というやり方を誘発したと西田峯吉は言っているのだ。


〔右より 18.2cm、30.3cm 24.3cm(昭和13年)(西田記念館)〕 
中央は西田峯吉が昭和13年に桜井玩具店で購入したもの〈こけし手帖・239〉

昭和17年、自挽のときは尺以上の大寸物の胞吉型を作ったが、すこぶる達筆で胞吉の情味に極めて接近したものを作るのに成功した。このころの作品が戦後のある展覧会において胞吉として陳列されたこともあった。
通常の胞吉型の赤と墨の描彩のほかに、墨一色のものも作った。この墨の濃淡で描かれたものはのちに墨絵こけしと呼ばれ、多くの追随者をだしたが、これは伝統こけしなのか、あるいは新型こけしなのかという議論も起こした。

戦後の胞吉型は多くが弟子や職人の木地であったが、鹿間時夫は「描彩ものびのびとことさら胞吉を意識していないため、明朗で個性を出している」と評していた。


〔30.3cm(昭和35年頃)(高井佐寿)〕

 〔伝統〕作並系
鈴木清ー昭二ー明ー敬と代々継続して胞吉型の伝承は続けられている。

〔参考〕

  • 西田峯吉:鈴木清氏の思い出〈こけし手帖・239〉(昭和56年2月)
  • 元窯 花・花 
    鈴木昭二の長男智(清の孫)は、遠刈田温泉に元窯という陶窯をもち、焼き物の店を開いている。鈴木清が天神沢の泉焼の窯焚きをする時などには孫の智もよく手伝ったという。
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