高橋市太郎

高橋市太郎(たかはしいちたろう:1909~1952)

系統:肘折系

師匠:佐藤丑蔵

弟子:

〔人物〕 明治42年3月21日、岩手県和賀郡沢内村猿橋第一地割の農業高橋権兵衛、ナミの長男として生まれる。大正11年尋常小学校卒業後、家業の農業を手伝っていたが、昭和元年より湯田の佐藤丑蔵について木地の修業を行った。兄弟弟子には石川清志と遠縁に当たる高橋雄次郎が居た。
昭和5年猿橋の菊池要吉の妹サツと結婚したが、間もなく現役兵として入隊、約2年の兵役の後昭和7年に除隊となった。サツとの間に3男5女をもうけた。除隊後は沢内村で製炭などに従事しながら木地を挽いた。この時期に一時及位の佐藤文六の工場(及位木工所)で働いたこともあった。
昭和11年の〈木形子異報・9〉で石井眞之助により作者として紹介された。その後、沢内村大字太田第十地割に転居したが、茶盆や玩具等を挽き、こけしも注文があれば作っていた。
昭和27年12月16日没、行年44歳。

〔作品〕下掲が〈木形子異報・9〉で紹介されたときに掲載された写真。2本の市太郎のこけしとえじこが中央付近に掲載されている。


〈木形子異報・9〉で石井眞之助が紹介した新工人たち

下掲写真のこけしは上掲〈木形子異報・9〉の写真中央付近にある市太郎の小寸のほうのこけし。〈こけし辞典〉ではこの時の作を、〈木形子異報・9〉の発行年月日(昭和11年3月)から昭和11年作としているが、巻末後記に「巻頭石井眞之助氏の原稿は昨夏戴いていたもの」とあるので掲載写真のこけしは少なくとも昭和10年夏以前の作である。
このこけしの形態は、佐藤丑蔵が正末昭初に作った俗称フランケンと呼ばれるものと同じである。昭和10年に市太郎がこけし製作を再開するに当たって、弟子時代に丑蔵から習った様式をそのまま継承して始めたことが良くわかる。


〔 15.2cm(昭和10年)(橋本正明)〕石井眞之助旧蔵

下掲二本は〈木形子異報・9〉に紹介されたのち蒐集家からの注文も入るようになってからの作、木地の形態や描法も市太郎としての個性が出てきている。この型が市太郎としては一般的である。
初期の方が、目の描法で下瞼が水平に描かれているものが多く、後期になるとした瞼が下側に膨らんで描かれるといわれているが、両描法は並存している場合もあり確実な判定指標ではない。


〔右より 18.8cm、9.4cm(昭和14年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

市太郎のこけしは、丑蔵の正末昭初の特異な一つの作風から出発して、やがて自分の独特の型に到達したものという点で興味深いこけしである。

市太郎の型は小林善作、小林定雄らによって復元作が作られた。小林定雄の市太郎型はこけし夢名会で頒布された。
 

〔伝統〕肘折系文六系列

〔参考〕

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