高橋武蔵(たかはしたけぞう:1888~1969)
系統:鳴子系
師匠:高橋亀三郎
弟子:高橋武男/高橋直次/高橋正吾/佐藤乗太郎/佐藤養作/秋山忠市
〔人物〕 明治21年11月29日、鳴子の高橋亀三郎、のつの長男に生まる。深沢要の〈こけしの追求〉によれば、亀三郎は本業農業であるがその傍ら木地も挽いたという。武蔵は父亀三郎について木地技術を習得した。明治35年15歳よりこけしを作り店で売った。明治43年の大水害では鳴子も甚大な被害を受けたが、そのあと上ノ山へ行って小松留三郎の職人を約1年間勤めたという。さらに宮島、箱根、遠刈田などへ木地の勉強に出掛けたこともあった。
明治45年25歳の時、きよのと結婚し、以後鳴子に落ちついて、地道に木地業を続けた。
こけし作者としての正式の紹介は〈こけし這子の話〉が最初であるが、それ以前の〈おしゃぶり〉に既に武蔵のこけし写真が掲載されている。
弟子は長男武男、次男直次、五男正吾のほか、佐藤乗太郎、佐藤養作、秋山忠市などが知られている。
大正13年亀三郎の没後、高亀商店を継承した。以後は亡くなるまで間断なくこけしを製作した。戦争中は疎開の児童に、こけしを作って与え続けたという。戦後は鳴子の代表的こけしとして一般に知られ、高橋盛とともに高亀・高勘時代を形成した。
晩年は息子や職人の木地に描彩することが多くなったが、高亀の店の脇を奥に入った木地工場で、黙々と木取りを続ける姿を見ることもあった。昭和44年8月30日鳴子湯元にて没した、行年82歳。亡くなったときには朝日新聞の全国版に訃報が掲載された。
性格はおとなしく、自分の仕事のみを一筋に貫いた。
左:高橋直次 右:高橋武蔵 昭和17年11月14日田中純一郎撮影
〔作品〕 大正期の作品は比較的整った静かな表情をしている。〈こけし這子の話〉や前掲の〈おしゃぶり〉に紹介されており、小寸物は〈こけし 美と系譜〉〈こけし鑑賞〉に作例がある。目の位置は相対的に高く描かれている。
ただし、天江コレクションには両瞼に丸い眼点を描いた下掲写真のような異色の作品も残されている。
昭和に入るとしだいに目の位置が低くなり、眼尻も極端に下がったユーモラスな表情になる。
〔13.9cm(昭和3年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
目の位置の下がった作風のピークは昭和5、6年である。作例は〈こけし 美と系譜〉〈古計志加々美〉〈こけしの美〉等に紹介されている。この時期までは胴の菊模様が外下がりに描かれている。
〔右より 24.3cm、24.1cm(昭和6年頃)(日本こけし館)〕 名和コレクション
〔右より 24.8cm、24.2cm(昭和7年頃)(西田記念館)〕 西田峯吉コレクション
昭和10年ころになると菊模様が逆に外上がりになる。下掲写真の深沢コレクションでは目の位置はまだ幾分低いが、やがて目も再び高くなる。
〔21.3cm(昭和12年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
昭和16年以後になると胴模様の下部に描かれていた緑の地面(横線)は姿を消す、そして表情は童女の顔から、端正なよそ行きの顔に変わる。
この変化を芹川鞆生(能、謡曲の研究家)は「花はずかしきかけがえのない有羞の美は、工人自身のクライ(気品)に化してしまった」と〈こけし手帖・111〉に書いた。子供の玩具から大人の蒐集品としてのこけしに変わるにつれて、よそ行きの表情になり、目の位置が上がったと芹川鞆生は言っているのであるが、この変化からそうした背景を読み取るのが適切かどうかは分らない。
武蔵自身は静かにこつこつと仕事を続ける工人で、蒐集界の動向にはあまり関心が無かったように思える。世間に出る仕事は主に長男武男が行なっていた。
戦後は胴を黄色く塗らなくなったが、白胴の清楚なこけしを作った。終生破綻の少ない作風であった。
〔右より 18.7cm(昭和33年)、18.2cm(昭和40年)(橋本正明)〕
下掲は〈こけし辞典〉に掲載された年代判別の特徴点表であり、大まかな年代はこれで鑑別できる。
〔系統〕鳴子系直蔵系列 後継者に長男武男、5男正吾、武男の長男武俊らがいる。
〔参考〕
- こけし会の会同人〈木の花・18〉「覚書:高橋武蔵」
- 高橋武蔵 – nifty
- こけしの話(48) 高橋武蔵 無為庵閑話Ⅱ/ウェブリブログ