高橋万五郎(たかはしまんごろう:1869~1921)
系統:鳴子系
師匠:高橋金太郎/膽澤為次郎
弟子:伊藤松三郎/小松五平/高橋寅蔵/遊佐平治郎/遊佐君男/岸正男/深見喜三/小松留三郎/高橋民三郎
明治2年5月6日、鳴子高橋金太郎の長男に生まれた。父金太郎は高橋治右衛門の弟万作の次男で、大沼又五郎について木地を修業した。万五郎は父金太郎より木地を習得した。また大沼岩太郎の旧家は万五郎の家の向かいにあったので、岩太郎の綱取りなどもしたと言われている。
一人挽きは明治31年ころ鳴子にきた膽澤為次郎について習得した。明治36年、氏家寅蔵が万五郎の養女千賀代(万五郎の妹のしの娘)の入婿となり、高橋寅蔵となった
父金太郎は塗物や宿屋などにも手を出し、ブローカー的な資質で結局財産を失ってしまった。こうしたことから鳴子にいられなくなった万五郎は明治41年40歳のとき、寅蔵や弟子を連れて岩手県鉛へ移った。その後明治43年には花巻へ出て城へ登る途中の長屋を二間借り、一間にロクロを置き、一間で生活をした。このとき、一緒にきた弟子には、伊藤松三郎、小松五平、遊佐平治郎、遊佐吉男などがいて、岸正男も雑事の手伝いなどをしながら万五郎の家から小学校へ通っていた。製品は市内をはじめ、近くの花巻温泉郷にも出していたという。
大正2年には花巻より盛岡市片白町へ移って、ここでも木地業を営んでいた。大正8年51歳のとき鳴子へ帰り、ここで成長した岸正男に木地の指導を行った。大正10年6月13日鳴子で没した。行年53歳。
弟子は、前記五名のほかに深見喜三、小松留三郎、高橋民三郎などが知られ、婿の高橋寅蔵も万五郎やその弟子達から技術を継承している。
金太郎はこけしを作ったが、万五郎は全く作らなかったといわれている。従来はこれらの古鳴子工
人の一群を万五郎系列と称していたが、〈こけし辞典〉以降は金太郎系列として扱っている。