高橋盛雄

高橋盛雄(たかはしもりお:1917~2000)

系統:鳴子系

師匠:高橋盛

弟子:森谷和男/大場茂/高橋輝行/柿澤是隆/遠藤金志/伊藤保夫/渡辺国雄/高橋義一/高橋敏文

〔人物〕大正6年7月22日、鳴子高橋盛・きくゑの長男に生まる。高橋松子は妹、遊佐福寿は実弟である。高等小学校を卒業後、父盛について木地を修業した。こけしも作り、母きくゑと合作のものなどが及川商店で売られた。昭和12年より横須賀海軍航空廠へ入り、勤務のかたわら昭和13年より定時制横須賀工業学校へ通い、飛行機の設計等を学んだ。昭和17年3月に卒業した。終戦は仙台市多賀城で迎え、戦後は県立工業学校の教員をした。
昭和22年より仙台財務局に勤め、賠償関係の処理を行なった。父の盛は昭和14年に鳴子を離れ、一家で秋田の県立工芸指導所で木地の指導を行なっていたが、昭和23年に秋田から鳴子新屋敷に戻ったので、盛雄も昭和23年末に鳴子へ帰り木地業に復帰した。昭和24年に川渡の会社員阿部清助の三女達子と結婚した。昭和26年には後にこけし工人となる次男敏文が生まれた。弟子としては森谷和男・大場茂・高橋輝行・柿澤是隆・遠藤金志・伊藤保夫・渡辺国雄・高橋義一・次男の高橋敏文などが知られている。
自ら木地を挽いてこけしを作るというよりは、老舗高勘の経営に関心が高く、多くの弟子を養成して、職人としての仕事を与える等、事業に力を入れて戦後の鳴子のこけし需要に応えた。高亀の高橋武男と並んで、高勘の高橋盛雄は、戦後の鳴子こけしの基盤を整えた功労者でもあった。昭和42年以降、父の盛は病がちであまりこけしは作らなかったから盛雄が、高勘の中心であった。昭和48年に父盛が亡くなった。
 晩年は仙台と鳴子を往復して活動し、鳴子の店奥には焼酎にマムシを入れた一升瓶を何本も蓄えて、親しい客や友人とそれを呑むのを楽しんだ。平成12年5月に次男敏文が50歳で亡くなり、盛雄もその4ヵ月後の平成12年9月21日に没した、行年84歳。

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高橋盛雄 昭和42年

〔作品〕名前は〈こけしの微笑〉時代より知られていたが、写真紹介は〈こけし・人・風土〉が最初であろう。ただし盛名儀の合作は〈古計志加々美〉に紹介され、詳細に研究されている。
戦前の作品は数も少なく稀品である。戦後初期の作は神経質な筆致で目尻の下がった甘い表情のものが多かった。昭和27年西田峯吉蔵の高橋勘治を見てから赤い丸段の肩を踏襲し、重量感のある作風に変わった。昭和30年ころの作は美術出版社〈こけし〉に紹介されているが、緊張感のある佳品であった。昭和40年ころより本格的にこけし製作に集中し、落ち着いた作品が多く見られるようになった。勘治型と本人型を主に製作を続けた。昭和40年東京のこけし店「たつみ」で頒布した勘治一家の一連の復元作は良品であった。


〔 27.3cm (昭和27年)(高井佐寿)〕


〔右より 21.2cm(昭和35年)、24.8cm(昭和28年)(高井佐寿)〕

〔伝統〕鳴子系利右衛門系列

〔参考〕

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