武田卯三郎(たけだうさぶろう:1894~1953)
系統:山形系
師匠:小林吉次/神尾長三郎
弟子:武田信吉/武田正志
〔人物〕明治27年7月8日、山形県東村山郡津山の武田春吉、フクの長男に生まれた。父の春吉は東村山郡高瀬村切畑の神尾家より武田家へ養子に入った人。母のフクは卯三郎が5歳の時に亡くなったので、父春吉は実家に帰り神尾姓に戻った。卯三郎は長男であったため武田の籍を守り、武田姓を名乗り続けた。
父の春吉はその後卯三郎が13歳の時、天童の神尾長三郎の娘リンと再婚し婿養子となった。
卯三郎は長三郎について木地の手ほどきを受けた。卯三郎にとって長三郎は師匠であるとともに義理の祖父に当たる。
卯三郎は長三郎より木地の手ほどきを受けた後、明治40年1月14歳で山形市鍛冶町の小林吉次(小林倉治5男)の弟子となって正式な修業を開始し、大正4年に22歳で年期明けとなった。その後天童に戻り、木地業を続けた。大正後期には職長として神尾の久野本の工場を取り仕切った。この時期に平塚安兵衛が工場に入って木地の修業を始めた。卯三郎は妻リオとの間に三男三女を設けたが、長男は若くして亡くなり、次男の信吉と三男正志が木地を継承した。
その後、天童での仕事が減ってきたので昭和5年頃単身で米沢市桜木町(当時の町名は桶屋町)に転出し、大町にあった工場の職人として働いた。ここでは木管や機業関係の製品を盛んに挽いた。昭和7年には家族を米沢に呼び寄せた。昭和11年には桜木町の自家に木工所を開設して独立することができた。昭和14年には米沢市住之江町に移り、動力ロクロを導入して、機業関係の需要にこたえた。またこの時期、長男信吉に木地の技術を伝えた。卯三郎の工場では橋本力蔵が働いたこともあるという。昭和15年〈鴻・第6号〉でこけし作者として紹介され、こけしの注文にも応じるようになった。
戦後も米沢で木地業を続け、昭和23年からは三男正志にも木地を教えた。
昭和28年2月8日、脳溢血のため没した。行年60歳。
〔作品〕こけしは山形の小林吉次のもとで明治末から作り始めた。この時期より大正8、9年ころまで盛んに作り、以後は中止した。しかし、昭和14年に蔵王高湯の橋本力蔵が渡辺鴻に卯三郎の存在を教えたため、鴻より注文が入り約20年ぶりにこけし製作を再開した。下掲はこの時卯三郎が作った3本。卯三郎自身の言によれば「吉次に木地は習ったがこけしは吉次の様式ではなく、神尾長三郎の様式で作っている。吉次の胴は桜模様だったが、長三郎は松竹梅を描いた。」とのことである。 これらの作は〈鴻・第6号〉で頒布された。
神尾長三郎の型を継承していると本人は語っていたが、どの程度長三郎の描法が継承されていたのかは不明である。長三郎の長男長八の作風ともかなり差がある。
〔伝統〕山形系
卯三郎のこけしは二男信吉、三男正志が継承した。また三女コウ(結婚して高橋姓)もこけしの描彩をする。