渡辺幸治郎

渡辺幸治郎(わたなべこうじろう:1889~1927)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤伝内

弟子:

〔人物〕明治22年10月23日弥治郎の渡辺幸六・みんの長男に生まる。父幸六は馬方や百姓をしていたが、祖父卯吉は二人挽きの木地師であった。父幸六が病気をして、佐藤東吉に借金をし、金を返すことができなかったので明治35年生家の上屋敷を去って、土方の建てた白岩屋敷に一家で移った。上屋敷には東吉の孫勘内が入って新宅となった。明治36年15歳のとき、先祖の業を継ぐべく、佐藤伝内の弟子となった。幸治郎は手筋がよかったので、伝内も力を入れて教え、明治42年21歳のときに師匠離れして白岩屋敷で開業した。5、6年弥治郎で営業した後、福岡村蔵本下ノ原に独立し木地業を続けた。下ノ原では弟幸九郎・鎌田文市が職人として働いたことがある。また一時他出し、郡山町本町の鈴木木工所で佐藤雅雄・新山左内・岩本善吉などと共に働いたともいわれている。大正15年2月身体を悪くして下ノ原より白石町字新町に移り、昭和2年12月17日に没した。行年38歳。従来の文献では幸次郎とするものが多いが、戸籍表記では幸治郎が正しい。

 
〔作品〕下掲は天江コレクション蔵品(〈こけし這子の話〉掲載)の渡辺幸治郎でおそらくこれが現在確認しうる幸治郎の唯一の作である。

〔23.6cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション
〔23.6cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション

かつて渡辺幸九郎の旧作が渡辺幸治郎作と見なされたことが有った。これは〈鴻・第7号〉の議論に基づくもので、同誌には鎌田文市の確認によって幸治郎とされた二本が示されていた。

〈鴻・第7号〉で幸治郎とされた幸九郎二本

これは従来、幸九郎下ノ原時代といわれていた作であるが、鎌先時代の作風と差があることから、渡辺鴻が写真の二本を持参して幸九郎に鑑定してもらった結果、自作であることを否定、さらに鎌田文市が幸治郎作と断定したとその論拠を記している。この判断に基づいて、久松保夫蔵品の幸九郎が〈こけしの美〉では幸治郎作で掲載されている。
しかし、現存する下ノ原時代の幸九郎の大部分は、橘文策が本人に注文したもので、このとき幸治郎はすでに没しており、その作が送られる可能性は殆ど無い。今日の筆法の分析でも下ノ原時代と鎌先時代に年代による差以上の違いはなく、いずれも幸九郎作であり、それらと明確に様式・筆法の異なる上掲の天江コレクション蔵品(〈こけし這子の話〉掲載)が唯一の渡辺幸治郎作とされている。

 

系統〕弥治郎系栄治系列
栄治が確立した巻き絵・手描きの折衷式を伝承。鎌田文市は大正時代、幸治郎の職人をしていたので、幸治郎の影響を多分に受けている。
鎌田文市の孫鎌田孝志やその妻美奈枝が幸治郎型を作ることがある。

〔参考〕

[`evernote` not found]