西須政芳(にしすまさよし:1907~1945)
系統:蔵王高湯系
師匠:石井酒/岡崎嘉平治
弟子:西須政広/西須政明
〔人物〕明治40年、米沢市御守町の西須政太郎の長男として生まれた。本名政義、こけしに署名するときだけ政芳を用いた。大正9年県立米沢工業学校を卒業、春日町で石井木工所を経営していた石井酒(みき)に弟子入りした。石井酒は岐阜県出身で名古屋で修業した木地師で、こけしは作らず、小林吉太郎より下請の仕事の依頼を受けて、木管、糸巻き等を製作していた。林重吉は石井木工所時代の弟弟子にあたる。
昭和2年に年期が明け、北寺町で独立開業した。この時、職人として橋本力蔵を雇い入れたが、力蔵よりこけしの存在を初めて知り、政芳も蔵王高湯の能登屋岡崎嘉平治のもとに出向いてこけし作りを覚えて帰郷した。
昭和4年米沢市御守町に西須木工所を設立、ボビン織機等の撚糸関係の木地製品を挽くかたわら、こけしも作るようになった。
西須木工所では、職人として平塚安兵衛が昭和4、5年ころに、佐藤伝喜が昭和8年から11年まで、佐藤伝伍が9年ころより、佐藤豊治が10年ころよりそれぞれ働いた。昭和5年より弟政広、同7年に弟政明に木地の技術を伝えた。政芳は、この間に伝喜、伝伍兄弟のこけしを模したこけしを作り始め、昭和9年ころより売り出したという。
昭和16年、東京の茶房「鴻」でこけし製作の実演を行った。
昭和20年6月15日米沢で没した。行年39歳。政芳の木工所は弟政広が受け継いだ。
〔作品〕橋本力蔵や岡崎嘉平治のこけしを見本として作ったと言われるが、このころのものは残っていない。現在確認できる作品は伝喜や伝伍の影響下に作ったもののみである。このころは頭のベレーや前髪、胴紋様が伝喜のこけしと酷似しており、完全な弥治郎系の様式であった。
昭和12、3年ころから旭菊あるいは重ね菊を赤と緑で交互に描くようになり、蔵王高湯系の影響が見られる。
下掲は、胴には赤緑交互の重ね菊を描いて蔵王高湯系の能登屋の様式であるが、頭部にはベレーを描いて弥治郎系の様式となっている。
昭和14、5年ころからこけしを多量に作り始め、菖蒲を描いたり、髷付等のこけしを売り出した。新型こけしのさきがけであった。
西須兄弟のこけしはすべて政芳名儀で知られたが、政広のこけしもかなり多数まぎれこんでいたという。
〔伝統〕弥治郎系と蔵王高湯系の混交
〔参考〕