橋本力蔵(はしもとりきぞう:1903~1957)
系統:蔵王高湯系
師匠:斎藤源吉
弟子:
〔人物〕明治36年12月8日、山形県南村山郡堀田村成沢の農業橋本清吉、ていの六男に生まれる。兄弟は七人。大正6年15歳で蔵王高湯の緑屋斎藤源吉の弟子となり木地の修業を始めた。その後、昭和8年31歳まで緑屋の職人を勤めた。この間、昭和2年には米沢の西須政芳のもとで約半年、及位の佐藤文六駅前工場で約一年、福島の菅野菊好堂で佐藤静助とともに約二年職人として働いた。昭和8年には米沢に住む兄のもとへ行って、織機の部品作りに従事した。
昭和9年10月米沢の長沼代助二女政(マサ)と結婚、陽子、修一をもうけた。この後も、夏季のみは蔵王高湯へ帰って緑屋を手伝い、こけしを製作した。また武田卯三郎の職人をしたこともあり、卯三郎をこけし作者として渡辺鴻に紹介した。
〈こけしの微笑〉で名前は知られたが、写真紹介は〈こけしと作者〉が最初である。
戦後昭和24年以降は、再び蔵王高湯に落ちつき、緑屋の職人として働いた。
昭和32年4月25日没、行年55歳。
額にこぶのある所から、職人仲間よりダチョウと呼ばれていた。
〔作品〕 昭和13年以後の作品が知られている。下掲は昭和13年6月に深沢要が蔵王高湯へ行って入手したもので、現存する力蔵ではごく初期の作である。〈こけしと作者〉もこれに近い。
最初の紹介者深沢要は〈こけしの微笑〉に「はからずも、源吉に橋本力蔵という弟子のいたことを知ったので付記しておく。」として略歴を紹介し「こけしは師匠の作風を忠実に伝承しているが、今一歩というところだろう。」と書いていた。ただ、全体的に細身で、紅が濁り沈んでいる初期の力蔵は、それなりに持ち味があって人を魅きつけるところがある。
〔右より 23.9cm、13.8cm(昭和13年6月)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
同時期に緑屋でオカッパ(黒頭)のこけしを作っていた源吉、源七、力蔵は、それぞれに髪の分け方に特徴があり、それで鑑別できるといわれている。力蔵のオカッパは七三で左右に分けるように描かれる。
この後、やや頭が丸くなり、鼻が長く、眼が三角形に折れる特徴的な面描に変わっていった。ただ、戦前のこけし製作は夏季のみの製作であり、作行も必ずしも安定したものではなかった。
〔右より 20.0cm(昭和15~6年)、25.4cm(昭和17年)(鈴木康郎)〕
戦後も昭和30年から32年にかけてある程度の数のこけしを緑屋で製作した。温和なおとなしい表情のこけしで、穏やかな情感を持った作品だった。
〔右より 31.1cm(昭和30年頃)(橋本正明)、25.4cm(昭和30年頃)(田村弘一)、22.0cm(昭和30年頃)(石井政喜)〕
「年をとってからたくさん作る」と語っていたが、55歳で亡くなってしまったのが惜しまれる。
〔伝統〕蔵王高湯系緑屋
〔参考〕