吉田昭(よしだあきら:1940~)
系統:蔵王高湯系
師匠:吉田三郎/木村祐助
弟子:
〔人物〕 昭和15年6月3日、東京市浅草区小島町の印刷工吉田三郎の長男に生まれる。父三郎は米沢の出身で、昭和12年頃上京し下谷に住んだが、戦争が激しくなる頃に出征して八丈島に赴任したので、残された家族は昭和20年春、米沢に疎開した。
戦後、父三郎も米沢に戻り、三郎の弟忠吉と坂部政次が共同で経営していた木工所を引き継ぎ、機業のコロやボビンの木地製品を製作した。但し、三郎は木工所の経営者であり、木地は挽かなかった。昭和30年代には新型こけしの需要が多く、その木地を主に生産し、雇い入れた女工に描彩をさせていた。
吉田昭は、昭和35年3月米沢の山形県立米沢興譲館高等学校を卒業した。高校在学中の昭和32年頃から家業の木工所において、職人として働いていた武田仁兵衛から、刃物の作り方や、木地の挽き方の指導を受けた。仁兵衛は仕事は遅かったが、丁寧な仕事ぶりであったという。それから間もなく仁兵衛は63歳で定年退職した。またこけしの描彩は黒田うめのに習った。吉田昭は高校を卒業してから木地業に専念するようになった。
昭和45年の大阪万国博覧会の頃から、上ノ山の木村祐助より木地下を頼まれる様になった。木村祐助からも技術の指導を受けた。昭和51年頃より、こけしを作るようになった。
昭和53年頃、大阪の能勢泰明より、金七の尺を借りて手本とし、金七型の研究を始めた。昭和54年8月には荒井家から許可を得て正式に荒井金七型のこけしを製作するようになった。許可を得るに当たっては、木村祐助が金七の息子の荒井清(上山市御井戸町)との仲を取り持ってくれたので、すんなりと承認を得ることができたという。昭和54年頃に一時吉田吉嗣の名を使っていた。吉嗣の名を用いたのは約1ヵ月程度だという。吉嗣名義の作品数は少ない。
平成26年以降、体調を崩して休業している。
〔作品〕 下に掲げる写真は、吉田吉嗣名義の作品で、金七型継承の許可を得て極最初の作。量感豊かで昭和10年代の金七のボタン模様の作風を良く写している。
〔31.7cm(昭和54年10月)(橋本正明)〕 吉田吉嗣名義
下掲の右端は、吉田昭が桜崩しの模様にも取り組みたいという意向を受けて、〈木の花〉のこけしの会が「古作と写し展」の企画にあわせて製作を依頼したもの。植木昭夫蔵の7寸6分をもとに製作した。昭和55年1月に備後屋で行われた企画展では、吉田昭はまだ無名に近い工人であったが、完成度の高い作品が出品されたので注目された。
左端は昭和16年頃の金七の重ね菊の復元である。
〔右より 23.3cm(昭和55年)こけしの会頒布、25.3cm(平成5年10月)(橋本正明)〕
金七の筆致や情感を非常に良く捕らえて、十分にその味を再現できている。
〔系統〕 蔵王高湯系
〔参考〕