千田美千雄

千田美千雄(ちだみちお:1907~1964)

系統:独立系

師匠:

弟子:

〔人物〕明治40年5月28日、千田酉蔵(明治7年2月2日生・昭和36年9月25日90歳没)、サヱ(明治18年6月18日生・昭和41年3月20日85歳没)の7人兄弟(男6人、女1人)の三男として山形県上山市鶴脛410(現在の上山市新湯)に生まれた。父の酉蔵は岩手県和賀郡岩崎村大字岩崎(現在の北上市)の出身、南陽市吉野村大字萩出身の加藤サヱと明治33年結婚、明治34年に上山に移住した。酉蔵は南陽市の吉野鉱山、福島市の菱川鉱山、上山市の賓山金山鉱山、南陽市の川樋地区山林の鉱山、鉱区を経営し、明治末頃から上山で「つた屋旅館」を創業して手広く事業を拡大した。創業当初は温泉掘削が不発だったので地下水をボイラーで温めていた。大正10年に新湯地区の源泉は開湯した。

昭和2年20才の千田美千雄

美千雄は旧制上山中学校(5年制)、山形高等工業学校(3年制)を卒業して、20才の時から家業に携わり、習得技術を存分に仕事に活かした。旅館の給水設備・ボイラー温水設備などを整え、各所鉱山の採堀設備の設置・搬送用のトロッコ鉄道を敷設した。鉱山では金→銀→銅→亜鉛→鉛の順に出鉱する金属が変化するという。金、銀が掘れなくなると銅を掘る。特に銅は溶かして武器を製造するので、当時は軍需金属として不可欠であった。日本帝国軍は父酉蔵のもとで働く美千雄を金属鉱山技師として認め、兄弟の中で美千雄だけを徴兵しなかった。

昭和17年6月 向かって右から酉蔵(父)、コト(妻)、恭子(娘)、サヱ(母)、美千雄、カ子(姉)

昭和8年に山形市香住町木の実小路出身、三浦桂治郞・き戉の長女、コト(明治44年2月28日生・没年不明)と結婚、昭和10年2月20日に一人娘の恭子が生まれた。その後、つた屋旅館の経営者として切り盛りするようになったが、昭和13年頃からこけし作りを始めて、お土産としてつた屋で販売するようになった。製作期間は昭和13年頃から18年頃までの短期間だったと思われる。戦時中、つた屋旅館では集団疎開の子供達も受け入れていた。子供達の遊ぶための玩具として作られたのかもしれない。
昭和14年10月の東京こけし會誌〈こけし・3〉に「新作者 西田氏旅中より新作者をご通知下さる」として千田美千雄の名が掲載された。また同東京こけし會誌〈こけし・5〉(昭和15年正月)に西田峯吉寄稿として「千田美千雄(山形県上ノ山) 木地は同地の木村吉太郎が提供してゐましたが、最近動力を据え付けた由、こけし応用のブラシも製作してゐる。」と紹介された。

西田峯吉による紹介の載った〈こけし・3~5〉

昭和16年仙台鉄道局発行の〈東北の玩具〉改訂版によると、山形県南村山郡上ノ山町新湯の描彩のみの工人として掲載されている。
ただ、美千雄のこけしの製作は昭和13年頃から18年頃までの短期間だったと思われる。
美千雄は昭和33年頃から体調が優れず、娘夫婦も他出したので、昭和36年につた屋旅館を廃業して美千雄自身も福島に転居したが、昭和39年11月1日に胃癌のためで郡山市の病院にて逝去した。行年58歳。

〔作品〕下掲は〈こけし辞典〉掲載のもの。写実的菊花を描きオカッパの新型風の描彩である。東京こけし会機関誌〈こけし・5号〉の記載に初期には木村吉太郎の木地に描彩のみをしていたとあるから木地は吉太郎かも知れない。


〔9cm(昭和13年)(沼倉孝彦)〕 久松保夫旧蔵

下掲は髷付きであるが上掲の作風に近い。


〔6.0cm(昭和13年頃)(高井佐寿)〕

下掲のこけしは胴底に千田美千雄と署名のある8寸、作風、特に木地の形態は上掲のこけしとかなり違う


〔24.8cm(昭和13年頃)(ひやね)〕


〔12.8cm(昭和13年頃)(沼倉孝彦)〕     

上掲二本の木地は、木村吉太郎ではなく、小林吉太郎のような山形系の作者のように見える。描彩も山形系に近い。
千田美千雄は描彩専門の時期があり、その当時には依頼可能な木地職人に注文し、その木地に描彩をしていたのであろう。


〔左より 9.0㎝、14.8㎝、9.4㎝(昭和13年頃)(箕輪新一)〕

昭和14年頃より動力を据えて自ら木地を挽くようになった。こけしブラシなどこけし応用品の製作が多かった。美千雄の甥の千田修一(昭和21年生れ)によると戦後、轆轤は倉庫に収納されていたとの事。汚れもなくきれいだったが、鉋類は残っていなかったらしい。自挽のこけしは多くはないと思われる。


〔26.6cm(昭和15年8月)(中根巌)〕

上掲のこけしには胴底に「山形 上ノ山 千田美千雄 十五年八月」の署名がある。千田のこけしには署名のある場合が多く、その署名では「田」の中の+が×で書かれている。

〔伝統〕独立系。 伝統こけしとして何系と言う議論をするまでの作品ではなく、当初は戦前の温泉地でただ観光土産として作られたものかもしれない。

〔参考〕

  • 中根巌:千田美千雄〈伊勢こけし会だより175号〉(令和5年12月17日)伊勢こけし会

 

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