佐藤與四郎(さとうよしろう:1832~1872)
系統:弥治郎系
師匠:佐藤音次
弟子:佐藤幸太
宮城県刈田郡三住あるいは大網の木地師。天保3年頃の生まれ。與四郎の家は遠刈田の佐藤吉郎平家より分かれた家系で、藩政時代には領主より扶持をもらって木地を挽いていたという。與四郎もこけし、やみよ、うすこ等を盛んに挽いたという。
與四郎の父は佐藤音治(音次と記載する文献もあるが墓碑の表記では音治である)。音治の兄が佐藤円吉で、円吉の孫が遠刈田の佐藤茂吉である。
父の音治は三住の佐藤惣治郎に経済的な利点を説かれて遠刈田から三住に移り、ここにロクロを設置してこけしや玩具を挽いた。製品は、白石、鎌先、小原、遠刈田に卸していた。
音治が亡くなり與四郎の代になった時、弥治郎の佐藤東吉と佐藤常治は三住でこけしをみて、自分達も作り始め、鎌先に出すようになったという(菅野新一による佐藤茂吉からの聞き書き〈こけし手帖・22〉)。
また一説では三住の音治は大網に移り、大網の旧家佐藤家に入籍してここでも木地を挽くようになった。與四郎はここで木地技術を身につけたという〈仙台周辺のこけし〉。とすれば東吉と常治が與四郎の木地技術を見たのは三住ではなく大網であったかもしれない。
いずれにしても與四郎の仕事ぶりに惚れ込んだ佐藤東吉は、妹のつめを與四郎の嫁に与えた。與四郎、つめ夫婦には常三郎(幼名常之進友厚とする聞き書きもある)、つな、みねが生まれた。東吉は與四郎一家を呼んで弥治郎で木地を挽かせることにした。弥治郎では東吉、常治が玩具つくりを学んだが、さらに東吉が口利きして、弥治郎の新山久蔵、小倉嘉吉、新山栄七、渡辺某(夘吉か)などに玩具つくりの指導をさせた〈仙台周辺のこけし〉。男の子供が生まれなかった東吉は與四郎を跡継ぎにすることを考えたが、これはうまくいかず、やがて與四郎一家は大網に戻っていった。
しかし、明治9年妻女つめはすいかを食べて食あたりをし急死する。また明治12年5月22日に與四郎は弥治郎から大網に帰る途中の落馬が原因で亡くなってしまった。
東吉は與四郎、つめの子供達常三郎、つな、みねを弥治郎に引き取った。つなには明治15年に一坂亀吉三男富治郎を婿として、常三郎の分家としたが、つなには子供が出来なかったので明治27年に妹のみねを富治郎夫婦の養女とし、明治28年一條栄吉二男與一郎をみねの婿にむかえた。
佐藤與四郎の長男常三郎が後の佐藤幸太である。與四郎は、弥治郎こけしの創生にかかわり、また後に幸太系列として一群の重要工人を輩出した佐藤幸太の父として重要な人物であった。
〔参考〕
弥治郎周辺図