小倉茂松(おぐらしげまつ:1896~1921)
系統:弥治郎系
師匠:小倉嘉吉/佐藤久蔵
弟子:
〔人物〕 明治29年10月2日、弥治郎の農業、木地業小倉嘉吉、志けの四男に生まれた。嘉三郎、精助、朝吉は兄、少年時代より父嘉吉について木地を学んだが、さらに佐藤栄治方で職人をしていた佐藤久蔵(のちの白川久蔵)より指導を受けた。木地挽きの技術には長けていたという。学校卒業後、2年間横須賀の造船所に勤務したが、いったん帰郷し、横川の高橋精助の家にロクロを設けて、茶入れ、風コマ、輪投げ、やみよ、こけし等を多く作った。それらの製品は弥治郎まで運んで、兄の嘉三郎に卸していた。
嘉三郎や大野栄治がこけしの胴の中央をくびらせて、その下を膨らませた形態を製作したが、その形態は茂松が横須賀時代に横浜で見かけた外国夫人が身に着けていた夜会服のローブアパニーエを茂松が表現したものを原型にしているという。
大正6年ころには青森県の浅虫に行って島津勝治の工場で働いた。浅虫行きは先に行って働いた佐藤慶治の口利きがあったかもしれない。茂松は佐藤久蔵を浅虫に招いたりもした。
甲斐性があり家屋敷も建て、結婚の段取りまでもきまっていたが、チョウナで膝頭を傷つけ、破傷風にかかって、大正10年4月18日、白石公立刈田病院で亡くなった。行年26歳。新山栄助の長女まきとの間にはるという子があったといわれる。佐藤誠とは仲がよかった。
〔作品〕未確認である。佐藤久蔵からの影響もうけており、技術もあって小倉家の中心となるべき工人であったが残念ながら若くして亡くなった。高橋精助にも影響を与えていた可能性がある。
〔伝統〕弥治郎系嘉吉系列
〔参考〕小倉重松とした文献もあるが戸籍表記は茂松である。