熊耳耕年

明治2年3月24日、台芭蕉ノ辻にあった老舗の仕立業大澤屋の次男として生まれた。姓の読みは「くまがみ」、本名は源助。実家の大澤屋は時流に合わず没落しはじめ、源助は10歳ころから奉公に出ることになった。明治15年14歳の時に父が亡くなった。
明治21年に絵の道に志を立てて上京し、浮世絵師の月岡芳年に内弟子として入門した。明治25年に師の芳年が死去、そこで尾形月耕の通いの門人となって絵の研鑽に努めた。耕年という号は芳年と月耕の二人の師より一字ずつもらったものという。
明治27年に仙台に居を移し、東北新聞に入社して報道画や挿絵を手がけ、また明治30年に
河北新報が創刊されると、依頼を受けて創刊号から新聞小説の挿絵を担当した。この間、仙台と東京を往き来して仕事を続けたが、大正12年関東大震災が起こったため家族を帯同して仙台に戻り、以後は地元の篤志家の依頼を受けて肉筆画を描くことが多くなった。
仙台の天江富弥の依頼を受けて〈こけし這子の話〉(昭和3年1月刊)の口絵原画を描いた。


〈こけし這子の話〉口絵木版画 原画:熊耕年

昭和3年、東北産業博覧会に出品した「芭蕉の辻図」(生家の大澤屋があった場所の風景)は日本画の部一等金牌賞を受賞した。
昭和13年8月24日没、行年70歳。


右より 三原良吉、熊耳耕年、天江富弥 小芥子洞の前で

天江富弥の小芥子洞にはよく出入りし、三原良吉とも親交があった。
三原良吉は、上掲写真のころ河北新報に入社したばかりで、当時の記者の腕章を捲いている。熊耳耕年が河北新報の新聞小説挿絵を描いていた関係で三原良吉ともつながっていたらしい。 

〔参考〕

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